「よぉ」と細めた平野の目尻に、記憶のままの細かい皴が刻まれる。
そこから返す言葉を探して沈黙が起きた。
何も言わずに消えた彼を非難するつもりはないが、取り繕ったような不自然な言葉しか思い当たらず、修司は「えっと」と口籠ってしまう。
「何緊張してんのよ。会いたかったんでしょ?」
テンションを上げたままの美弦に背中を叩かれ、側の席へと手を引っ張られた。
彼に会いたかったのは事実だが、二年半の開きがそれまでの関係をリセットしてしまった気がして、以前の調子で話す事に躊躇してしまう。
そんな修司に助け船を出してくれたのは京子だった。
「平野さんは修司に何も言わないでこっち来たんだもん、そりゃ話し辛いよ。けど修司、もう仲間なんだから遠慮なんてしなくていいんだよ? 今日は仕事で来て貰ってたから、ちょっとだけでも集まろうって時間空けてもらったの」
「平野さんが来るって聞いてなかったんで、びっくりしました」
美弦は声を弾ませながら、桃也から受け取った紅茶入りのカップに太いスティックシュガーを三本も投入する。修司はその横で、深呼吸するように熱いコーヒーを一口すすった。
向かいに座る平野をチラと覗いたつもりが、補正でもしたようにぴったりと目が合う。
「お前といる時は、こんな所に来る気なんて全然なかったんだ。姉ちゃんにもキーダーの訓練はきついから、トールになれって年寄り扱いされたしな」
「ちょっと平野さん、いきなり人聞きの悪いこと言わないで下さいよ」
取り乱す京子に、綾斗が「言ってましたよね」と容赦なく言い放った。
「そんなストレートに言ってないから」と京子が頬を膨らませる。
確かに基礎鍛錬や修司の一番恐れているヘリコプターからの降下は還暦過ぎの身体にはハードなのかもしれない。
「まぁ色々免除してもらってるのもあるから文句は言わねぇけどよ。今じゃ英雄の爺さんよりは働いてるぜ」
平野は改まった表情で立ち上がると、修司の前にやってきて美弦と逆隣りの椅子を引いた。
「悪かったな」と腰を下ろす彼に「いいえ」と首を振ると、平野は苦笑してテーブルの上で手を組み合わせる。
「薄情かもしれねぇが、俺は結局この強さを捨てることが出来なかったんだ。それまで偉そうにバスクを語ってた俺には、お前に同じ道を強要はできねぇよ。お前が自分でここに来たいと思ったんなら何も言わねぇが、後悔したと思うなら速攻辞めていいんだからな?」
「……色々あったけど、後悔はしてないよ」
「辛いと思うのは、これからかもしれないね」
しんみりと呟いた京子に、桃也が「不安にさせるなよ」と注意する。綾斗も「全く」と柔らかく咎めるが、本人は気にしていないようだ。
「確かにあの時は何でって思ったけど、伯父さんの事も含めて、これで良かったのかなって」
「保科さんに関しては、本部内で仮病を使う女性が増えたっていう問題もありますけどね」
彰人の言葉に全員が無言で頷く。平野は「なら良かったぜ」と笑んでお茶をすすった。
「あっちでの生活も慣れてきたから、そろそろあの店を再開させようと思ってる。酒が飲めるようになったら、嬢ちゃんと一緒に来いよ」
「わぁ、行きます!」と美弦が飛びつく。
五年通った平野の店『プラトー』は、上京したあの朝に訪れて以来だ。固く閉ざされた黒い扉がまた開くのは願ってもないことである。
「美佐子もお前に会いたがってるぜ」
「絶対行く! 俺も美佐子さんに会いたい!」
美佐子はプラトーの隣にある小料理屋の女将だ。たまに顔を見せるようにと言われて別れたのに、口約束のままになってしまっているのは心苦しい。
「楽しみだな」と美弦を振り返るが、彼女の笑顔に先程の言葉が蘇り、修司は急に不安を募らせた。
「あの、それで……話は変わるんだけど。平野さんもキーダーになってから、訓練施設ってのに行ったの? バスクがキーダーになると一年行かなきゃならないって聞いて」
思い切って尋ねると、美弦を一瞥した綾斗が「そうだよ」と先に応えた。その後ろで申し訳なさそうに俯くのは京子だ。
「行った行った。北陸は酒と刺身が美味いぞ。カニもな。あぁ、姉ちゃんは桃也と離れるのが嫌だってわんわん泣いてたっけな」
「泣いてません!」
平野は相変わらずだ。はっはと笑う声に京子が苦虫を噛んだような顔をする。
「ごめんね、修司。いつ言おうかと思ってたんだけど。こればっかりは規則だから」
「大学はあっちを受けて戻った時に編入するか、一年置いてこっちを受験してもいいし。成績見せてもらったけど、欲張らなきゃ問題ないでしょ。どっちにせよ向こうには三月に高校を卒業してから行けばいいよ」
綾斗に突然進路の話をされて、やたら現実味が増してくる。
「一年ならあっという間だよ」
今もまだ桃也は京子の元に帰れずにいる。
同じ思いをした二人のように、自分もそうなってしまうのだろうか。
「……ですね」
修司は美弦に視線を向けたが、そっぽを向いたまま目を合わせてはくれなかった。
「僕は楽しかったよ。ご飯は美味しいし、空気も綺麗だし。もうここは頭を切り替えて、その土地でしかできないことをエンジョイしてくることが大事だよ。それより――」
彰人が左手首に嵌めた時計仕様の銀環で時間を確認し、「ごちそうさま」とカップを置いた。
「桃也、修司くんの事借りて行ってもいい?」
「え? あぁ。別に構わないけど。寝るまでに基礎はやっとけよ」
修司は「はい」と桃也に返事する。小さく手招きする彰人を追って、扉の所で平野を振り返った。
「平野さん、また来てね」
そう伝えると、「分かった」と平野が右手を上げる。
二年前に尋ねた質問を、彼は覚えているだろうか。
『銀環を逃れて生きることは、本当に自由なのかな――?』
銀環をはめた平野は前よりも表情が明るくなった気がする。だからその答えを聞かなくても、彼の言葉は何となく想像することができた。
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