──『貴方、ウィルね』
去年の秋の事だ。町で偶然彼を見つけて、咄嗟に腕を掴んだ。
周りに人が居た事も、自分の立場も考える余裕がないまま戦闘に至ったのは、早計だったと思う。
結果オーライといえば聞こえはいいが、ウィルの問いに朱羽が嘘の返事をした事で、今回の事件をややこしくさせてしまっている。
──『田母神京子か』
キーダーで大人の女子と言えば真っ先に京子の名前が出てくると言う世間の認識は、朱羽にとって都合が良かった。あの頃はまだ髪が長く、遠目で見れば背格好も彼女に良く似ていた。
アルガスに戻りたくなくて「そうよ」と答え、ウィルも疑わなかったのだ。
扉越しに見る彼の手には銀環もなければ力の気配もない。アルガスへ拘束してすぐに京子がトールにしたのだと報告書には書いてある。
「一つ聞かせて。貴方、私が京子じゃないって気付いたわよね? どうして言わなかったの?」
よくよく考えれば、あの場に京子を呼んだ時点でその事実がバレない方がおかしいのだ。
この作戦が成功したのは、彼がそれを黙っていたからに尽きる。
「どうでもいいからに決まってんだろ。田母神京子ってのは、俺にとっちゃキーダーの若い女の代名詞みたいなもんだ。俺を倒したアンタがキーダーってだけで十分。名前なんか指摘したとこで、こっから出れるわけじゃねぇからな」
「まぁ、そうだけど……」
ウィルの顔に覇気はない。誰かと話すことが久しぶりなのか、声が少し掠れている。
「俺はいずれアルガスに捕まるだろうって思いながら生きてた──いや、そうなるのをどっかで望んでいたのかもしれねぇな」
「それは、ホルスが原因?」
「……さぁ」
ウィルたち三人がホルスと関わっているだろうことは、監察員からの調査で分かっている事だ。
けれど前の戦いで確保した安藤律のような幹部クラスではない。下の下と言ってもいい彼等が組織から十分な扱いを受けているようには思えなかった。
「そういう事か」
朱羽は力が抜けたように扉へ背を預けた。横目に穴を捕らえて、興味なさげなウィルに溜息を漏らす。
「仲間の二人、貴方を奪い返そうと動いてるわよ?」
「シェイラとガイアがか?」
目を見開いたウィルが、衝動的に覗き穴の淵を掴む。
細く長い指が突き出て、朱羽は「ちょっと」と眉を寄せた。
「まぁそんなことさせないけど。二人が捕まるのも時間の問題よ。ホント馬鹿ね、十年待てばまた会えるのに、自分でそれを先延ばしにしてる」
「馬鹿野郎が」
「十年の刑期のうち、まだ一年も過ぎていない。貴方が出る頃に間に合えばいいんだけど」
バスクが絡むと、色々面倒なことが多い。あの二人が捕まる事になれば、ノーマルのシェイラはアルガスではなく警察の管轄だ。
「アイツらを捕まえてやってくれ」
「いきなりどうしたの?」
「十年で俺がここを出た所で、ホルスの奴に殺されるのがオチってことだよ。俺たちみたいな奴等は、失敗なんて許されねぇからな。俺に関わってるとアイツらまで殺されちまう」
「ねぇ、ホルスで一番発言力があるのは誰なの?」
「…………」
ウィルが黙るのは予想通りだ。
ホルスで名前が流出している人間は極僅かで、幹部クラスともなればアルガスはお手上げ状態だった。
律の時もそうだが、ホルスの人間は口が堅い人間が多い。言葉が自分の命に直結すると感じているのだろうか。
「十年経った頃には、もっと住みやすい世界になっていると良いわね」
「キーダーごときが、アイツらに勝てるとは思えねぇけどな。人の命を何とも思ってない奴らだぜ? ……あぁいや、その話はタブーだった。言うなよ?」
「そんな組織でも、貴方はホルスの肩書が欲しかったの?」
「最初はカッコいいと思った──そうじゃないと思った時は手遅れだ。あそこは一度入ったら出られねぇ。こんな檻の中でも、あそこよりましだと思えるんだぜ?」
ホルスの情報は喉から手が出る程に重要なものだが、実際はウィル自信も詳しくは知らされていないようだ。
顔も名前も知らない相手に彼が脅える理由を考えると、全容を知るにはまだ時間が掛かるだろう。
「分かったわ。けど貴方がここを出た時、私たちの世界は今とは違うかもしれない。反省しながら期待して待ってて」
「期待外れだなんて言わせるなよ?」
手で半分隠れた穴から覗く瞳は、まだまだ反省の色など見えなかった。
「懲りてないわね。ところで貴方はシェイラに会いたいと思う?」
「思うよ」
「そう──一応覚えておいてあげる。私の事黙っててくれてありがとう」
「俺は何もしてねぇよ。で、アンタは本当は何て名前なんだ?」
「私? 私はアルガス本部所属、キーダーの矢代朱羽よ」
「覚えておきなさい」刑事ドラマさながらにそう加えて、朱羽は地下牢を後にする。
半地下の資料室の前に来た所で、ずっと圏外だったスマホが鳴った。
不在着信を示すランプが点滅し、モニターにはさっき会ったばかりの上官の名前が記されている。
「今度は何よ」
朱羽は不満を漏らし、再び階段を上へと上った。
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