──『律、もし僕に何かあったら、彼を助けてくれないか?』
もうずっと前に言われた言葉だ。
高橋が死んだ後、ホルスの幹部として組織を支えてきたつもりだった。だから横浜でアルガスに捕らわれバスクとしての力を失った時、もうそれで最後だと思っていた。
彼との約束は果たした──これ以上何かを頑張った所で、高橋は帰って来ない。
そう納得したつもりだったのに、突然現れた彰人のせいで心が一気に鋭い牙を剝いてしまう。
数日で戦いが起こるといった彰人の情報は、あながち嘘ではないだろう。
彼がこの牢に現れて、二日が経った。もう戦いは始まってしまったのだろうか。
空になった昼食の皿に溜息を落として、律はカレー用に用意されたスプーンを手に取った。
食事は扉についた配膳用の小さな穴で受け渡しをする仕組みになっていて、人が行き来することはできない。鉄格子の向こうでは、アルガスの護兵が看守として休みなく律を見張っている状態だ。
彼が人間用の扉を開くだろう選択肢を頭に並べて、律は踏みっぱなしだったシューズの踵を立てて足を滑りこませる。
「洋、これで最後よ?」
躊躇すればそれで終わりだ。
律は左手を豊満な胸の間に滑り込ませる。指先で肌の奥に潜む硬い感触を確認し、一度手を抜いた。
『いけ』と心の中で唱えて、スプーンの両端に力を込める。パンと音を立てて半分に折れた切れ目は、十分に鋭かった。
本当は昨日ここを出たかったが、まだ迷いがあったのかもしれない。
今日の食事に銀色のスプーンが出て、それが一気に消え去った。満を持しての決行だ。
「完璧ね」
ここの生活は退屈で、頭を回す時間は腐るほどあった。
最初は抜け出そうなんて思わなかったけれど、もしもを考えて脳内シミュレーションはしてきた。
律はほくそ笑んで、折れたスプーンの先端を自分の胸の内側へと突き刺す。
高橋の残した最後の砦だ。
「結局私じゃなくて、あの人の為なのよね……」
弱音を吐くのは一度だけ。
もう後戻りはできない。全身を貫いた強烈な痛みを、100倍の声に乗せる。
「きゃあああ!」
何事だと護兵が駆け付けた時、牢の中央に蹲る律の周りには血だまりが広がっていた。
肌に埋め込まれていた一錠の薬は、フィルムで特殊コーティングされている。
律は指ですくい取った薬をポケットにねじ込んで、牢に飛び込んで来た護兵に足を蹴り上げた。
警報の鳴る廊下を駆け、数人の壁をかわしてエレベーターに飛び込む。
初めて牢に入った時は目隠しをしていてここが何処かは分からなかった。アルガスの施設かと思ったが、見知らぬ病院の地下ロビーに出る。しかもまだ診療時間内なのか患者が溢れていた。
血みどろの女にギャラリーは騒然となったが、外へ出るまではあっという間だった。
「空だ……」
数年ぶりに感じた風が心地良い。
警戒して振り返るが、追手も銃の球も飛んでは来なかった。
奇妙な程に簡単な脱出は、彰人がそうさせているだけかもしれない。
けれど今はそんな理由などどうでも良い。
律は確信を持って声を上げた。
「居るんでしょ?」
どこまで届いたか分からない音に沈黙が伸びて、小さく笑ったその時だった。
複数の足音がザッと地面を鳴らしたのだ。
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