田中へサインしかけた腕が、諦めの感情とともにダラリと落ちる。
忍の気配が立ち上り、風景が沈んでいくのが先だった。
キンと響く音に軽い頭痛を感じて目を閉じる。
手にしていた空き缶が地面に落ちる音が鳴り、長い一呼吸の末に目を開くと、辺りが一変していた。
直前まで居た場所と何ら変わりはないのに、自分たち以外の人間が誰も居ない。律と戦った時もそうだったが、元の世界のまま人だけ消し去ってしまったのかと疑ってしまう程、精巧に風景を残している。
シンとする無人の東京駅は不気味だ。耳に馴染んでいた雑踏が消えて、無音が耳に痛かった。
京子は忍に掴まれたままの腕を振り払って息を呑む。
「空間隔離の中……ですよね」
「そうだよ。全員殺したのかと思った? 流石に人だけなんて器用な事はできないよ」
忍はずっと笑顔のままだ。これが狂喜に変わる瞬間を、京子は知っている。
「あんまり長くはないですよね?」
「俺と二人きりでずっと居たいって事?」
「そういう意味じゃありません」
「ハッキリ否定されると辛いんだけど?」
彼のペースに飲まれそうになる。油断大敵だ、と京子自分に言い聞かせた。
空間隔離を保てるのは一曲分程度だと律が前に言っていたが、個人差はあるのだと忍は続ける。
「まぁ15分くらいはいけるんじゃない? 中で戦闘すればそれだけ短くなると思うよ」
「そっか……ここに居るのは私たちだけなんですか?」
「二人で話がしたいんだろ? 邪魔者は置いてきたよ」
「忍さんの仲間も居たんですか?」
気になる言い回しに首を傾げると、忍は「まぁね」と距離を詰める。
静まり返った空間で、少しの動きが音を響かせた。
空間隔離がどこまで続いているのかは分からないが、広すぎる視界の中が息苦しくてたまらない。
「もしかして、そっちの仲間の心配してる? 別に何かしろって言った訳じゃないけど、ヒデは見つけたらどうするだろうね」
「松本さんが居るんですか!?」
ヒデ、といえばホルスのトップだと言われる『松本秀信』の事だ。それは一番あって欲しくない事実かもしれない。ただ、忍の口ぶりはどうしても上下関係を逆に思わせる。
何でだろうと眉を顰める京子に、忍は陽気に声を立てて笑った。
「壁に耳ありって話したでしょ? 京子が駅に居るのを知らせてくれるのもアイツだよ」
「そんな……どうして?」
前に外で会った時、松本は気配を垂れ流しにしていた。なのに今日は微塵も感じることが出来なかった。
「どうして、って。ヒデは特別だからさ」
「特別?」
忍はニヤリと口角を上げる。
「京子の彼も同じだよね?」
「バーサーカーって事ですか?」
「そういう事。俺が京子と初めて会った時は、本当に偶然だったんだ。けど、その後はヒデの能力だよ」
綾斗の読みの鋭さが、バーサーカーという特殊能力に起因しているなど考えたことが無かった。だとすれば、松本はずっと東京駅に潜んでいるのだろうか。
「松本さんは、ホルスのトップなんですよね?」
「そうだよ。見えない?」
忍は彼を『ヒデ』と呼ぶ。解放前のアルガスメンバーでさえ、彼をそう呼ぶのは大舎卿と浩一郎くらいだ。
「そうは見えません」
思ったことをはっきりと答えると、忍は「なら良かったよ」と安堵さえ見せる。
「良かった……?」
「京子がそう認識してくれてたなら、情報操作としてはまずまずだと思ってさ」
「情報操作?」
京子は疑問符を返した。
「外向きの顔なんて、ヒデが居れば十分なんだよ。トップだなんて肩書き、俺は欲しいなんて思わないからね」
「俺、って……」
「ホルスを仕切ってるのは俺なんだ。京子だって薄々気付いてたんじゃない?」
分かる。
そう言われると、今までの事の半分以上を納得することが出来た。
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