「俺、朱羽さんが好きです。助けてもらったあの日から、ずっと好きでした。そうじゃなかったら、俺は今ここにいませんよ」
涙を忘れて驚く朱羽を、龍之介は自分の胸に抱き寄せた。
ふわりとした感触と体温に高まる衝動を必死に隠す。
「私が高校生の男の子にときめくわけないじゃない」
突き放すように言った彼女の両手が、ぎゅっと龍之介の背中を掴んだ。
「アルガスに戻る決心が着いたって言ったでしょ? それなのにどうしてみんな私を惑わそうとするのよ」
「みんな? どういう意味ですか?」
「さっきオジサンたちに呼ばれたの。無理にここへ戻らなくてもいい、あの事務所に今まで通り居てくれていいって……なんか調子狂っちゃって」
「えっ……」
それは素直に喜んでいい事なのだろうか。
龍之介の肩に額を付けたまま、朱羽は「うん」と頷く。
「私がここに居た頃とは事情が違うわ。ホルスが動き出してる今、キーダーの数を確保したいんだと思う。けど本当にそれだけなの? って勘繰っちゃって」
「朱羽さんはあの事務所に居たいんですよね? 上の人の考えは良く分かりませんけど、俺は嬉しいですよ」
「……確かに、あそこに居られたら本望だけれど」
「なら、そのオジサンたちに甘えていいんじゃないですか? 事務所に残る理由になるなら、それだけで十分な待遇だと思います」
朱羽は全身を強張らせたまま、そろりと龍之介を見上げた。
「ほんと龍之介っていい性格してるわね」
「俺、褒められてます?」
「褒めてないわよ。けど、龍之介の気持ちは貰っておくわ。今はまだ、何も考えられないもの」
「朱羽さん……?」
「少しだけよ」
空耳かと思えるくらい小さな声で囁いて、朱羽は龍之介の肩に額を預ける。けれど、その言葉通り一分も経たぬ間に彼女は龍之介を離れた。
「男の人に抱きしめられるって、こんな感じなのね。何か京子に嫉妬しちゃうわ」
独り言のように言って、朱羽は「ありがとう」と少し落ち着いた様子で壁のスイッチを探した。急に明るくなった部屋に、龍之介は目を細める。
朱羽に「どうぞ」とソファの向かいへ促されたところで、龍之介はテーブルの上に用意されたおにぎりの山を見つけた。
「平次さんが持ってきてくれたのね。そういえば何も食べていなかったものね」
平次はアルガスの食堂長だ。
龍之介は部屋の隅にある電気ケトルを確認して、「お茶淹れます」と座りかけた足を伸ばした。
部屋が明るくなって、急に現実へ引き戻された気分だった。彼女の感触がまだ全身に残っているのに、全部夢だったのではと思えてしまう。
薄いカーテンの掛かった殺風景な部屋は、朱羽の事務所より少し狭い。ロッカーに机に応接セットという最低限の事務的な家具たちは、彼女の個性がまるで感じられなかった。
「龍之介、お茶じゃなくてコーヒーを淹れてもらえる? そこにあるでしょ?」
「え、いいんですか? 朱羽さんコーヒー苦手なんじゃ」
彼女が言うように、確かにドリップ式のコーヒーが茶葉と一緒になって籠に入っている。
「京子がね、勝手に入ってるのよ。私への嫌がらせなんじゃないかしら。けど、コーヒー飲むと眠くならないんでしょ? 今夜は長くなりそうだから」
「そ、そうですね」
色々な意味を頭に巡らせて、龍之介は手から滑り落ちそうになったケトルを慌てて掴んだ。
朱羽は「大丈夫?」と悪戯な笑みを見せる。
「エッチなこと考えたでしょ」
「考えてません! ……少しだけですよ」
表情を隠しきることができず、龍之介は朱羽に背を向けて正直に答える。彼女の足音が近付いてくるのが分かって、息を呑んだ。
「龍之介、私と一緒に来てくれない?」
吐息を拾える距離で彼女は足を止め、龍之介はケトルを台に戻した。
真面目な話だと思った途端頭が冷静になって、彼女の方へ身体を向ける。
「私が撒いた種だから、私がちゃんと決着を付けなきゃ。ただ、そこに龍之介が来てくれたら心強いなって思って」
申し訳なさそうに眉を寄せる朱羽にそんなことを言われたら、断る理由など何もない。
「俺の親は駆け落ちして結婚したんです。だから、後悔しないように生きろ、実力行使は大事だって言われて育ったつもりです。だから俺は朱羽さんと行きます!」
綾斗の憧れだという相葉紗耶香は、のほほんとしたマイペース人間だ。それがピアノの前に座った途端別人のようになるのが、小さい頃は不思議でたまらなかった。やるべきことに真っすぐな人なんだと理解できたのは、ここ数年の話だ。
「私と駆け落ちするつもり?」
「そ、そのくらいの気持ちで」
「大袈裟よ。けど、ありがとう」
そっと胸の前に伸びた彼女の手を、龍之介は両手できつく受け止めた。
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