事務所に戻り、朱羽はまずエアコンのスイッチを入れた。空けていた数時間で、中がすっかり蒸し暑くなっている。
車の中で彼女は黙ったまま虚ろな表情を暗い空に向けていたが、少し落ち着いたようだ。
朱羽はソファに沈むと「疲れたぁ」と右腕で目元を覆った。
「龍之介も少し休むといいわ」
「なら、お茶でも淹れますか?」
「ほんと? 嬉しい。ありがとう」
龍之介は帰り際に綾斗から渡された茶封筒をテーブルに置くと、部屋の隅にある小さなキッチンに向かった。
けれど、やかんに水を入れ始めた所で入口の扉がドンドンドンと激しく鳴る。その音は尋常でなく、非常事態を示しているのは明らかだ。
「何?」と眉をひそめた朱羽に、龍之介は「俺が」と水を止めてやかんを放す。
立て掛けられたさすまたを持とうか迷って、結局手ぶらで入口へ向かった。
「どちら様ですか?」
「丸熊です。頼む、ちょっと手を貸して欲しいんだ」
「あぁ、お茶屋さんだわ」
ドア越しの返事に、朱羽が「商店街の人よ」と立ち上がる。
頷いた彼女の合図に答えて、龍之介は扉を開いた。
ジメジメした外気が入り込んできて、透明カッパを着たずぶ濡れの男が立っている。
男は龍之介を見るなり太眉をねじり上げて厳めしい顔を見せるが、背中に朱羽を見つけると「おぉ」と安堵を滲ませて用件を伝えた。
「助けてくれ。事故だ、雨でスリップした車が横転して、人が挟まってる」
☆
すっかり日の落ちた雨空の下、龍之介と朱羽は先導する丸熊を追い掛けた。
街灯や店の明かりが反射する水溜まりをバシャバシャと踏みつけながら、傘を片手に一本向こうの通りまで走る。
「こういう事、良くあるんですか?」
「滅多にはないわ。普通の事故は警察の仕事で、本来ならキーダーは手を出せないのよ」
「えっ、じゃあこれはいいんですか?」
「緊急時近くに居るなら、見過ごすことなんてできないもの。これでも自分なりに訓練してきたんだから。任せておいて」
雨はやむ気配もなく強まる一方だ。こんな中で彼女の力がどんな役に立つのか龍之介にはまだピンとこなかった。
徐々にサイレンの音が大きくなって、赤色灯の明かりがぐるぐると闇に交り合う。
大通りの交差点を塞ぐ人だかりを、丸熊が「どけてくれ」と叫びながらかき分けていった。
規制線の前でようやく足を止めた丸熊の横に並んで、龍之介は言葉を失う。
一台のワンボックスカーが鉄のガードレールをひしゃげて歩道へと進入し、花屋のショーウィンドウに横倒しでめり込んでいたのだ。ガラス片と飛び散った色とりどりの花が、オレンジ色のハザードランプに照らされて不気味な現場の色を作り出している。
「あの車が突っ込んできやがった。俺の店も衝撃でグチャグチャだ」
よく見ると、花屋の隣には『丸熊茶舗』と看板が掲げられている。外観は無事だが、明かりの消えた中の様子は見えない。
「通して!」という緊迫した声に振り向くと、事故車の陰から出てきた一台のストレッチャーが、男を乗せて救急車に吸い込まれていった。
騒然とする現場の横で、片側通行に規制された道路が渋滞を起こしているが、救急車は甲高いサイレンを鳴らして横をすり抜けていく。
ワンボックスカーの単独事故とはいえその被害は大きく、救急車はあと二台待機していた。
歩道には何人もの怪我人がいて、救急隊員にトリアージを付けられている。
「他のキーダーには連絡しないんですか?」
「このくらい私一人で十分よ」
朱羽は自信あり気だ。
「こっちだ」と丸熊に呼ばれて黄色い規制線を潜ろうとすると、側に居た警官に「入っちゃ駄目だ」と止められてしまう。
丸熊が「彼女はキーダーだから」と説明して、朱羽は更新前のIDカードを警官の前に突きつけた。
「ありがとうございます」
その事実に警官は態度をコロリと変えるが、後ろに続いた龍之介の腕を取って「君は?」と不振がる。
「俺は彼女の助手です」
「キーダーでないなら、ここで待ってて」
彼女に付いていきたかったけれど、あっさりとそこで足止めされてしまった。朱羽はそんな龍之介を振り返って、パチリと閉じた傘を渡す。
「これお願いね。龍之介はここにいて」
頭から雨を被って、朱羽は龍之介に背を向けて行ってしまった。
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