炊き立ての甘いご飯の香りが広がって、律は「ちょっと暑いね」と窓を開けた。
カーテンの切れ目から覗く外の風景は暗くて何も見えなかったが、隣のビルの壁がすぐそこにあるのだと思うと無性に息苦しさを感じてしまう。それでも吹き込んで来た少し寒いくらいの風は、修司のもやもやとした気持ちをスッキリとリセットしてくれた。
律はテーブルについて「もう、お腹ペコペコ」と洗ったカップに作り置きの麦茶を注ぐ。修司が座ったタイミングで、「いただきます」と先におにぎりへ手を伸ばした。
具は空に近い冷蔵庫にそっと潜んでいた、賞味期限ギリギリの梅干しだ。
「美味しい。男の子なのに凄いね」
「同居の伯父が忙しい人なんで、家事は一通りやりますよ」
「偉い!」と褒めて、律はあっという間に一つ目を完食し、二つ目を食べ始める。
「自分の分だけだと面倒だなって思う事もあるけど、美味しいって喜んでくれる人がいると作り甲斐がありますね」
家事をすることは苦ではなかった。体の弱かった母親が、小さい頃から家の仕事を一通り教えてくれて、颯太と住み始めた時には「彼女と同棲してるみたいだな」と喜ばれたものだ。
「律さんは一人でここに居るんですか?」
「そうよ。でも、少し前に会ったバスクの人がたまに来てくれるの」
「えっ! 他に仲間がいるんですか?」
ドアの外を警戒して、しかし精一杯の声で修司は驚愕する。
「仲間じゃなくて、同志って言うのかな。ここに来てればそのうち会えると思うわ」
「凄い。俺、東京に来て初めて会ったバスクが律さんなんです」
「全体の数は少ないだろうから、それが普通よ。だから出会えるのは運命みたいなものじゃない?」
今の日本で、アルガスの管理下にあるキーダーは二十人程だという。対してバスクはどれくらいいるのだろうか。
「修司くんと会えたのは本当に偶然。でも力を隠すのは苦手? 今はちゃんとできてるけど、さっきは驚いたわ」
平野と居た五年間で習ったことは三つだ。撃つ事、操る事、そして消す事。
『まぁ基本だな』と平野は得意気に言っていたが、その中でも重要な『気配を消すこと』が修司はあまり得意ではなかった。
町で彼女とぶつかった時のように、ふとした弾みで抑えていたものが緩んでしまう。
「律さんはどうして追われているんですか?」
「そりゃバスクだからよ。捕まえるのが仕事のキーダーに顔が割れちゃってるから」
「それでも捕まらないんですね。戦うこともあるんですか?」
「ううん、脚には自信があるのよ。逃げてばっかりいるから、まだちゃんと戦ったことはないの」
言われてみれば、と修司は玄関に目をやった。フワフワのロングスカートにはサンダルやヒールでも合わせそうなものだが、彼女の靴は履き古した白いスニーカーだ。
「いい? 修司くん。どっちが先に敵に気付けるかで勝敗が決まる。バスクで居たいと思うなら、どんな手段を使っても逃げなきゃ。もし戦闘になったとして、修司くんは戦う事ができる?」
「そんなに」と言葉を濁して修司は首を横に傾けた。
一通りの基本は平野に習ったつもりだが、動力系の力が覚醒して間もない修司には、ほぼ座学のようなものだった。
「そっか。もしもを考えるなら戦えるようにしておいた方がいいわね。ある程度まで高めておけば、銀環付きのキーダーに負けることはないと思う――でもさっきみたいな一般人が多い場所は駄目よ? 関係ない人を巻き込んじゃダメ」
フワリとしたイメージを逆らって、律は強い目を見せる。
強大な力を恐れた国が、銀環でキーダーの力を抑え込んでいるという。けれど、颯太は修司がキーダーを相手に戦う事を良く思っていない。
「アルガスや国は、キーダーが善でバスクが悪だと思ってる。それって、自分の都合に合わせて動く駒がいいって言ってるだけでしょ? 枷を付けて縛ろうなんて、奴隷になれってことじゃない? 私はそんなのに屈するのは絶対に嫌!」
厳しい表情で言い切って、律はまだ手を付けていなかった麦茶をごくごくと飲み干す。
彼女の意見は、颯太や平野から聞かされていたバスクそのものだ。バスクがキーダーになるのを嫌がる最大の理由が『銀環を付ける』ことらしい。
「またいつでも来ていいからね」
平野の所に居たように、今度はここが自分の場所なのかなと漠然と思った。
一人でバスクとして生きるには、まだ足りないものが多すぎる。母親が家事を教え込んでくれたように、一人で生きる力を付けなければならない。
そして彼女と居ればまた美弦に会えるだろうか。捕まりたいわけではないが、チャンスがあれば話がしたいと淡い期待を抱いてしまう。
美弦の事を考えていると、律が突然「あっ」と声を上げた。
何事だろうと彼女の見上げた先へ顔を向けると、時計の針が十二時を回っていた。恐らく終電ギリギリだ。
「ごめん、こんなに遅くさせちゃって。良かったら泊まってく?」
「とまっ……」
そう言われて少しだけ考えてしまう。
けれど、首を縦に振ることはできなかった。彼女にしてみれば深い意味などないのだろうが、この初めての空間で平常心を保っていられる気がしなかったのと、自分一人がそんなことを考えてしまうことが恥ずかしくてたまらなかった。
「片付けられなくてすみません、帰ります」
慌てて立ち上がる修司に律は棚から小さなノートを取り出して、急いでペンを走らせた。
「これ、私の番号だから。いつでも連絡して」
ビリっと破られた紙に書かれていたのは、携帯電話の番号だ。差し出された紙をポケットの奥に突っ込んで、修司は靴を履きつつ頭を下げる。
「ごちそうさま」と片手を小さく振った彼女の笑顔に後ろ髪をひかれつつ、修司は駅までの数百メートルを全力でダッシュした。
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