金曜日の夜、私は研究所のリビングにいた。カイさんの根回しが効いて、スムーズに研修生となることができた。
研究所は森を抜けたゆるやかな傾斜の丘の上にある。周りは大きな木が数本生えているだけの芝の土地が広がっている。
今日は雨で、月も星も見ることができない。私は窓の前に立って外を見渡した。
「月が出てないから、今日は夢魔の浄化はできないんですか?」
「そうね。だから大きな夢魔が出ない限り、様子見するしかないわね。それに、今日は雨の予報だったからみんな出掛けてていないの。悪いわね」
柚月さんが話しながら机の上に置いてあった大きめの紙袋を差し出した。
「これが那津の制服とか通信機とか、研究所で必要なものが入ってるわ」
渡された袋を覗き込むと、みんなが夢魔と戦っていた時に着ていた全身真っ黒の上下の服に、黒の上着が入っている。それから、収納された短いスティックが数本と通信機。スティックを挿すベルトもある。
「セカンドハウスに那津の部屋も用意したから、ここにいる間は、そこを使って。後で試着もしてね」
柚月さんから鍵を渡された。
「ありがとうございます」
これからこの研究所の一員になるためにどれだけの訓練をしなければいけないのか不安はあるけど、新しいことを始める期待も大きい。
「柚月さん、さっきみんな出掛けてるって言ってましたけど、今日は研究所にいるのは私達だけですか?」
「そうなの。カイと音弥は本社に行ってるんだけど、会食があるって言ってたから、こっちに戻ってくるかはわからないわね。トリコさんはふらっと出掛けていったし、凛とフィルさんは家に帰ったみたいよ。ふたりは本来、夜にここにいる必要はないから雨とは関係ないないけど」
私は研究所の人の生活をよく知らない。もしも私がひとりでここに残ることがあっても、自信を持って留守番できるくらいにはならないといけない気がする。
「柚月さんは、私のために残ってくれたんですか?」
カイさんと音弥さんに私の教育係を押し付けられてたから、申し訳ない。
「気にしないで。私も那津が来るのを楽しみにしてたのよ」
柚月さんがソファーに座った。凛とした横顔が美しい。
でも、柚月さんには寿太郎さんという家族がいる。夢魔の浄化ができない日くらい家に帰らなくてもいいのだろうか。余計なお世話か。
「あ、あの、寿太郎さんは元気ですか?」
「あぁ、寿太郎の心配をしてくれたのね。元気にしてるわよ。今日は当直だから家にはいないのよ」
寿太郎さんは医者だった。彼も忙しいんだ。
私も柚月さんの向かいのソファーに座った。
「あの……柚月さんは、寿太郎さんとどうやって出逢ったんですか?」
思い切って聞いてみた。
「寿太郎は、昔は救急医だったの。カイが夢魔と戦って大怪我したときに、治療してくれたのがきっかけで知り合ったんだけど、夢魔の話を最初から信じてくれて、一生懸命治療してくれた。彼はそういう人よ。だから惹かれたの」
私の顔を見て笑った柚月さんの顔は、ふんわりと柔らかい表情だった。
夢魔のことは世間にはまだ公表されていない。秘密だと言っていた。
「寿太郎さんを信用して、真実を話したんですね」
「そうね。寿太郎になら信じてもらえると思ったし、秘密を言いふらしたりしなさそうでしょ?」
確かに。寿太郎さんは真っ直ぐな人だから、秘密は守ってくれると思う。
「寿太郎さんって、裏表なさそうですもんね」
「裏表がないからか、夢魔と戦ったカイに向かって『なんでもひとりでやろうとするな!』って説教したの。夢魔の話を疑いもせずに、カイの行動に説教するんだから、びっくりしたわ。あのカイに、外部の人間でそんなこと言ったのは後にも先にも寿太郎だけよ」
柚月さんは嬉しそうだ。
説教されるから、カイさんや音弥さんは寿太郎さんを苦手にしていたのかもしれないと思ったら笑えてしまった。
「寿太郎が開業医になったのはね、私達が夢魔と戦って何かあったときに、秘密を知っている医者が近くに必要だと思ったからだって言ってたわ」
聞けば聞くほど、寿太郎さんが太陽のようだと思う。
「大きい病院なんですか?柚月さん入院してたんですよね?」
「この辺りは田舎だから入院施設まである病院はなかったの。寿太郎が病院を作るって決めたときに、寿太郎の家族が力を貸してくれて、病床数は少ないけど病棟がある病院を建てたのよ」
「寿太郎さん、素敵ですね」
常に誰かのためになろうとする寿太郎さんに、柚月さんが惹かれるのはわかる気がする。
「寿太郎のお父さんと弟さんが医師で、妹さんは看護師。引退している祖父母も医師だったみたいで、協力者が多かったから病院を建てられたって聞いたわ。寿太郎の家族や友達の医師があの病院に交代で勤務してくれてるしね。だから、寿太郎だけの力ではないのよ」
「でも、たくさんの人が助けてくれるのは寿太郎さんの人柄ですよね。きっと」
柚月さんも誰にも気づかれない場所で夢魔の浄化をして、災害を防いでいる。素敵な夫婦だ。
「って、私達の話はどうでもいいのよ。訓練よ、訓練」
そう言って両手で顔を隠した柚月さんがかわいいと思ったことは、口に出さない方がよさそうなので、喉の奥にしまいこんだ。
「何をしますか?」
「そうね、まずその服を試着──する前に、那津の片想いについて詳しく教えてもらおうかしら」
柚月さんが身を乗り出した。
これだけ話を聞いてしまったので、私だけ話さないわけにはいかない。
柚月さんは不敵な笑みを浮かべている。
片想いの相手なんていない。……まさか、あの歌声の主の話をカイさんか音弥さんが話したのかも。それとも、私がカイさんの態度に動揺していたことが柚月さんには見透かされているのかもしれない。でも、あれはカイさんが私に思わせぶりな態度をとってきただけで、私が片想いしてたわけじゃないし。
柚月さんが言っているのは歌声の主のことだろう。
「あの人に対しては、恋愛感情というか、会いたいですけど、声しか知らないので」
私には片想い未満の話しかない。
外の雨はだんだん強くなり、窓を激しく叩いている。
「声に片想い?興味あるわ」
その反応は、どういうことだろう。
「あれ?あの……カイさんや音弥さんから聞いてないんですか?」
思わず赤面する。
「何も聞いてないわよ。ただ、前に那津が付き合ってる人はいないって言ったのに、頑なに駿太くんを拒否してたみたいだったから、そういう相手がいるのかな〜って思っただけよ。けど、あのふたりに話してて、私には話せないってことはないわよね?」
さらに体温が上昇するような恥ずかしさに、ソファーに倒れこんだ。
でも、カイさんのことを話さなくてよかったと心底思った。
私は諦めて、あの人のことを柚月さんに話した。
まだ歌うことを知らなかった私が偶然聴いた声から始まった想い。心臓がざわざわするような低音と、どこまでも響くハイトーンと、優しいのにどこか切なくて、私の心はあの人の声に囚われたままだということ。もう一度歌声を聴くことができたけれど、また声が聴きたいと願ってしまうことを。
「でも、音弥さんには恋じゃなくて興味だって言われました。カイさんには、あの人にじゃなくて声に恋してるって」
声に恋してるのは本当かもしれない。聴きたくて聴きたくてたまらないから。
「確かにそれを片想いって言うには、私達は年齢を重ねすぎてるかもしれないわ。でも、那津がそんなにも聴きたがる声なら、私も聴いてみたい」
柚月さんも真剣に話を聞いてくれた。
すべて話してしまえば、恥ずかしさよりも清々しい気分になった。ただ、あの人を意識すると、また囚われた心が苦しくなる。
「さぁ、次は試着して訓練よ。雨が酷いから今日はここでできることをするわ。着替えたら戻ってきてね」
柚月さんに指示されて、さっき教えてもらったセカンドハウスという隣りの建物の二階へ向かった。
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