「歌ってみて、どう?」
セカンドハウスの屋根の上は、月明かりに照らされていた。
私とカイさんの間をさらさらと風が流れていく。
私の心臓は普段よりも速く動いている気がする。
歌ってみて、音弥さんには怒られるかもしれないけど、私情しかなかった。カイさんの声が夜空の遠くまで響いて、美しかった。カイさんの声を全身に浴びた私は幸せでしかない。
「贅沢すぎて倒れるかと思いました」
「那津、それは歌った感想じゃないだろ……」
カイさんの言葉を聞いて、思わず両手で顔を覆った。
「本当に、本当にずっと聴きたかった声で…プロのミュージシャンにだってこんな気持ちになったことはなくて。正直、自分の歌なんて覚えていません!!」
すると今度は、カイさんが右手で自分の顔を覆った。
「カイさん、どうしたんですか?」
「いや、なんかこっちが恥ずかしくなる」
カイさんの反応が新鮮過ぎて笑ってしまった。
そのとき、すーっと前から何かが飛んできて、空を切る音がした。
隣の屋根から飛んできた音弥さんだった。音弥さんはザザザっと派手な音を立てて、私とカイさんの間に着地したので、私達は数歩ずつ後ろに下がった。
「初めてにしては、相性よかったんじゃないの?」
音弥さんが立ち上がりながら、カイさんに話しかけた。
「あぁ、上出来だ」
カイさんは、もうクールなカイさんに戻っている。
「今日は夢魔も出てこないし、台風も早くても明日くらいだろうし、俺は消えるから、存分に話し合ったら?カイもたまには休めよ」
音弥さんは、月の光を集めてレモン色の光を放つスティックをカイさんに渡すと、さっさと屋根の下に下りていってしまった。
話し合う?私とカイさんが?なにを??
カイさんが屋根のてっぺんに腰掛けた。
「那津が俺の声を褒めてくれたから、本当のことを言おう」
カイさんが音弥さんから受け取ったスティックを短く戻して、ベルトに挿した。腰の辺りからぼんやりと優しい光がカイさんを包んでいる。
本当のことってなんだろう。
私は少し距離をとって、カイさんの隣に座った。
「柚月が那津の声を推薦してきた時、半信半疑だった。実は柚月の声でも十分素晴らしかったのに、俺と一緒に歌っても綺麗な響きにならなかったから、それ以上の声なんてないと思ったし、音弥とはハモれたから音弥がいればいいと思っていた」
柚月さんの声は力強く芯がある綺麗な声だ。だから、カイさんがそう思うのは無理もない。
私は頷きながら話を聞いた。
「けど今回のことがあって、那津には助けられた。それに那津の歌はコンテストで酷評を受けるレベルのものではないと思う。少なくとも俺は、好きだと思う」
カイさんの言葉が胸に落ちてきた。コンテストの呪縛がハラハラと体から剥がれていくのを感じた。
思わず膝を抱えて、顔を伏せた。流れてくる涙のせいで、顔を上げられなくなる。
カイさんは、ずっと隣で黙っていた。
「すみません。こんなつもりじゃなかったんですけど」
自分でもなぜ涙が出たのかわからなかった。
「俺も泣かせるつもりはなかったんだが」
ピーピーピーピー。
突然、通信機から電子音が響いた。
「はぁ〜い、こちらトリコ。深夜にも関わらず花村が出社したわよ〜。これはなにかあるわね」
「って、トリコさんと柚月は今どこにいるんだ」
「本社の夜の気象当番の子達と一緒に気象研究室いたの。柚月はそこに残ってる。私は連絡のために屋上に出てきたわ」
「花村の所属は確か経理だったか」
「そうよ。こんな時間に出社したことはないでしょうから、気象研究室にこんなに人がいるとは思っていなかったみたい。今は特に台風前だから多くの人間が残っていたんだけど、びっくりしてたわよ」
「なんか言ってたか?」
「近くで飲み会をやっていて帰るときに、会社に忘れ物をしたことに気づいたそうよ。明日から有給休暇だから、ついでにメールのチェックもしてから帰るんですって」
「わかった。ありがとう。けど、ふたりとも働きすぎだから一度帰って休むように」
「あら、珍しく気を遣ってくれるじゃない?」
「特に柚月だ。寿太郎さんに殺されたくないからな。早く帰るように伝えてくれ」
「はいはい。けど、台風が変な動きを始めたわよ。24時間以内に研究所の上を通るわ。狙っているとしか考えられない」
トリコさんは報告が終わると通信を切った。
いよいよ、黒い夢魔と芹沢が起こした台風が迫ってくる。
「音弥と合流する。中に行こう」
カイさんが立ち上がって、私に右手を差し出した。手を取って立ち上がろうとして、足が滑った。
危ない!と思った時にはすでにカイさんを巻きこんで屋根から滑り落ちていく。
カイさんが体勢を崩しながら私の体を右手で引き寄せ、左手でベルトから数本のスティックを出して格子状にばら撒いた。スティックはネットのように、私達の体を受け止めた。そして、そのまま屋根のすぐ下で止まった。
事故とはいえ、カイさんの腕の中に入ってしまった。
「ご、ごめんなさい」
離れようとすると、カイさんが止めた。
「このまま下に降りる。足場が悪いから立とうとするな」
そのままゆっくり地上に降りた。
「ありがとうございました」
「那津は体幹が悪いな。鍛えた方がいいんじゃないか?歌のためにも」
カイさんが立ち上がってスティックを拾う。
「そうします」
カイさんは、私と触れあってもいつもと変わらないのに、私だけが緊張してしまう。
カイさんにとっては私はただの研修生だから当たり前だけど、少し悔しい気がする。初恋の声がカイさんだとわかって、嬉しくてドキドキした。この気持ちはそれでおしまいではなかった。続いてしまっていることに気づいた。
だけど、このままでは私の気持ちはどこにも行けない。研修中の身なのに社長に恋するバカなんてどこを探してもいないと思う。
「どうした?」
カイさんは嘘みたいにいつも通り。
制服を着ている今は勤務中。
私には、伝えられない気持ちを抱えていく選択肢しかないみたいだ。
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