「少し外に出てみないか」
カイさんの提案で車から降りた。駐車場の奥には景色を見るための場所があり、腰の高さくらいまでの柵がある。ここにも淡い光を放つだけの外灯がひとつ。柵の前に立って街を見下ろしてみても、やはり田舎の夜景の光りは物足りない。
カイさんが着ていた上着を私にかけてくれた。
「那津は4月から俺たちの会社の社員になる。例外なく最初は本社に研修に行ってもらう。ただ、那津には研究所での仕事をしてほしいから、研修は1週間のみだ。その間は柚月にも本社で働いてもらうから、困ったことがあれば柚月に聞くといい」
「はい、ありがとうございます」
「俺がずっと側にいるわけにはいかないから」
カイさんは会社の社長で私は新入社員だから、研究所ではよくても本社では距離を置かなければならない。少し寂しいけど、仕方ない。
「那津、手を出して」
カイさんに言われるままに手を出すと、そっと手を繋がれた。優しくて大きな手だ。触れただけなのに感情が溢れてしまいそうになる。
カイさんは私ではなく、曇った夜空に視線を向けて歌を歌い始めた。
君の信じた道なら必ず光が差しているという未来への希望の歌詞だった。そして私の愛した高くどこまでも届きそうな透き通った声だった。いつだってこの声は私の胸の奥をぎゅっと掴む。涙が溢れてくる。繋いでいないもう片方の手で涙を拭った。
「今の歌は卒業祝いと思って受け取って」
憧れて、恋しくて、切なかった、あの日の歌声の主が贅沢すぎる卒業祝いをくれた。頷くのが精一杯の私。言葉で表現するにはあまりにも足りない。
「那津の気持ちが以前と変わっていないなら、俺の彼女になってほしい」
「はい」と答えると、カイさんは優しく抱きしめてくれた。ずっとそうなれたらどんなに幸せだろうと思っていた。カイさんの声に恋をしてから、こんな日が来るとは思っていなかった。
「私、カイさんが好きです」
大丈夫かな。こんなにドキドキしていて、カイさんと一緒に働けるだろうか。
「那津、ちょっと待て」
カイさんが私から離れた。不安になって見ていると、カイさんが両膝に手をついて、下を向いた。
「どうしたんですか?」
「……本気でこのまま連れて帰りたくなった」
頭がふわふわした。本当に脳内に花でも咲きそうな気分だ。カイさんがそんなこと言うなんて。戸惑って私は言葉が出せない。本当なら私だって一緒にいたい。でも帰らなきゃ、さすがに親が心配する。
「ごめん。忘れて。けど…俺は那津が想像してるよりも那津のことを好きだってこと」
カイさんが体勢を立て直して私を見た。暗い場所でよかった。自分が今どんな顔をしているのか想像しただけで恥ずかしくなる。
「カイさん…私溶けそうなので、あんまりそういうこと言わないでください」
慣れてないから、油断したら腰が砕けそう。
「じゃぁ、俺の質問に答えて。俺がこの声を失っても那津は側にいてくれる?」
カイさんの声はカイさんの一部だ。私とカイさんを繋いでくれた大切な声。失うなんて考えられないけど……私はカイさんの優しいところや強いところや不器用なところも全部知ってカイさん自身を好きになった。
「私の初恋はカイさんの声ですけど、今はそれだけじゃないです」
最初はカイさんといると緊張した。でも今は、誰よりも心が動く存在になった。
そのとき、風が通り過ぎた。
「夢魔か…」
カイさんの言葉で雲に紛れて、雲の流れとは別の動きをしているもやが無数にあることに気づいた。ただ、どれもが一度ゆっくり下に降りると生暖かい風となって通り過ぎ、舞い上がって消えた。弱い夢魔たちだろう。夢主の元へ還るのだろうか。空を見上げると、ぽつんと冷たい雫が落ちてきた。
私達は慌てて車に戻った。車内に入ったところで雨が激しくなった。
「間一髪だったな」
「カイさんのコート少し濡れてしまいました」
話しながらコートを脱いで、軽く畳んでカイさんに返した。
雨の音が静かな車内に響く。
「さっきの夢魔はカイさんの歌で浄化されたんでしょうか?」
「俺の歌で多少弱ったかもしれないけど、そもそも弱い夢魔だったから、自然に夢主のところへ戻ったと思う。月の光がなければ浄化は難しいだろうし」
でも私は今夜の夢魔はカイさんの歌が聞けて幸せだっただろうなと思う。
「でも、私はやっぱりカイさんの歌で無魔が救われたから還ったんだと思います」
人の心に届く歌が歌えるのは、カイさんが悩んだり傷ついたりしながら、人の心に寄り添ってきたからだと思う。私もカイさんのように、夢魔にも夢主にも届く歌を歌えるようになりたい。
月夜の歌で世界を救えたら、この道を選んだことに誇りを持てる気がする。
「那津は俺の歌声に対して過大評価してるところがあるからな」
土砂降りになった雨の音を車の中で聞いていた。カイさんが車のエンジンをかけた。本当はもう少しこのままでいたかったけど、帰りの時間は近づいている。
「私、頑張ります。カイさんの彼女だって、人に知られても恥ずかしくないように。胸を張れるように」
不安もあるけれど、ずっとカイさんに好きでいてほしいから。
「そのままで十分だよ。仕事は頑張ってほしいけど、俺の彼女だからって頑張らないといけないことなんてなにもない。俺は成長しなきゃいけないけどな」
カイさんは私の髪に触れた。
「もしもこの先辛いことがあったら、必ず相談して。それだけは約束」
「はい。じゃぁ、カイさんも何でも話してください」
何でも知りたいし、力になりたい。
「わかった」
私達は笑いあって、雨の中をドライブしながら家まで帰った。
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