家に帰って家族や近くに住む親戚に卒業を祝ってもらったあと、お風呂に入って2階の自分の部屋に戻った。ライブの光景がまだ脳内で再生される。高校生活で何度も何度も歌った校歌は、今日一度の経験で全く別の色になった。
部屋のカーテンを開けた。雲が多く月も星も見えない。月の光がなければ夢魔は発生しないか、しても活動しない。今日は研究所の仕事は楽かもしれない。
外を眺めていたら机の上のスマホが鳴った。瞬時に机の上に手を伸ばした。表示を見ると、カイさんだった。思わずスマホを床に落として慌てて拾う。焦って通話ボタンを押した。
「こ、こんばんは」
慌てて出たので、心待ちにしていたのがバレたと思う。カイさんは、笑っていた。
「こんばんは。近くまで来たから、今ちょっと外に出られないか?もう少しで那津の家に着く」
嘘でしょ。あんなに会いたいと思っていたカイさんが近くにいる。
「大丈夫です。あ」
思わず余分な文字を発してしまった。
「どうした?」
「えっと…パジャマ着てたから、着替えるので待っててください」
じゃぁ今日はもう会うのやめようって言われたらどうしよう。少しの不安が脳裏に浮かんだ。
「じゃぁ、那津の家の隣りに車停めて待ってる。慌てなくていいから」
カイさんの返事は、私を安心させてくれた。でも私は早くカイさんに会いたい。時計はもうすぐ23時になろうとしている。18歳にもなったし高校も卒業したのに、なんとなく親には見つかりたくないので、慌ててパンツスタイルに着替えてパーカーを羽織った。ポケットに財布とスマホと家の鍵だけ入れた。廊下もリビングも玄関も電気が消えているので、両親は寝たのだろう。きっと朝まで起きないはずなので、静かに外に出た。
肌寒い。もう少し厚着してくればよかった。でも、家の中に戻って万が一親に気づかれたら面倒くさいことになりそうなので、そのまま行くことにした。
カイさんは、家の脇に停めた車の横で立って待っていた。スラっと細身の体型にスプリングコートを羽織っている。銀の髪が暗闇の中では灰色と区別がつかない。
「こんばんは。こんな時間に悪かったな。体が冷えるから、乗って」
カイさんは車の助手席のドアを開けて、私を乗せた。
「寝る前だったのに、悪かったな」
寝てなくてよかったなと思う。
カイさんが運転席に座った。久しぶりにカイさんの匂いに包まれた車内で、少し緊張する。
「カイさんは、お仕事大丈夫だったんですか?」
「今日は、休みにしてもらった」
私に会いに来てくれるつもりだったのだろうか。
「こんな時間に連れ出して非常識だってことはわかってるけど、少しドライブに付き合ってほしい」
「はい。たぶん両親は朝まで起きないと思いますし、私も明日予定がないですし」
「両親に叱られたら俺が謝りにいくから安心して」
「カイさんが謝る必要ないですよ」
カイさんが謝罪にきたら、うちの両親は腰を抜かすかもしれない。
「──けど、こんな時間に俺以外の男の車に乗るのはだめだからな」
カイさんはそう言うとすぐに、車のエンジンをかけた。暖房の温かい空気ゆっくりと流れてくる。
カイさんってこんなこと言う人だったかな?
「どこ行くんですか?」
「月見公園の上。ここで車停めて話してたら、迷惑になるからな」
月見公園は私の家から車で15分くらいのところにある大きな公園で、低い山の中腹にある。更に上には、広い駐車場がある。ここからは夜景も見れるが田舎なので見られる光が少なく、深夜は街を見下ろしてもぽつぽつと明かりが見える程度だ。だから天体観測などのイベント時以外は夜にここにくる人はほとんどいない。
駐車場から坂道を登ると見晴らし台のある山頂に行くこともできるので月や星を見に来る人もいし、昼間は山頂までのハイキングコースを楽しむ人もいる。でも今日のような天気では人はいないだろう。
駐車場に着くと、やはり車は1台も停まっていなかった。カイさんはなぜこんなところに来たんだろう。
車を停めたカイさんがシートベルトを外したので、私も同じようにした。
「俺が夢魔の浄化を始めたのは、国を災害から守りたいとかそんな立派な志しはなかった」
カイさんが語り始めたので、黙って聞いた。
「夢魔という謎の存在に興味を持って、わからない現象を調べて解決するのが楽しかっただけだった。一緒にいた芹沢も最初は好奇心だったと思う。でも、夢魔どころか他人の感情がどうでもよくなっていた俺と違って、あいつは夢魔の感情について考え出した」
カイさんが自分のことをこんなに話すのは珍しかった。私はカイさんの横顔を見つめた。カイさんはハンドルにもたれ掛かって話を続けた。
「だけど、カイさんだって研究所の人たちのこと考えていると思います」
「以前は俺に寄ってくる人間は俺自身じゃなくて俺の肩書に興味がある人間ばかりだったから、正直、他人はどうでもよかった。でもトリコさんはいつも真剣に俺を叱ってくれた。音弥や柚月に出会って、夢魔の感情にも興味を持った。それでも恋愛なんて俺にとっては大したものじゃなかった──那津に会うまでは」
カイさんが突然こちらを向いた。駐車場の淡い街灯の光がほのかにカイさんの表情を見せてくれた。
「那津は、いつも一生懸命に俺に向き合ってくれた。同じくらい夢魔にも向き合っていた。俺が夢魔の感情に触れてみようと思ったのは那津のおかげだよ。ありがとう」
私は両手で顔を覆った。カイさんの落ち着いた声とは逆に私の鼓動は激しく動き出す。
「私は何もしてません」
ただカイさんを好きになっただけ。
「那津、卒業おめでとう。手を出して」
カイさんはポケットから何かを出すと、私に渡してくれた。
両手で受け取る。鍵だ。
「セカンドハウスの寮の鍵だ。正式な社員になるからな。ちなみに部屋は少し引っ越した。4月から柚月が昼間の勤務になるからな」
「本社に行くんですか?」
「もちろん、そういう日もあるし、研究所にいて本社と連絡を取り合ってもらうこともある。柚月は寿太郎さんとの家庭もあるからな。これ以上、夜の生活のままというのもよくないだろう」
研究所の皆で話し合ったと教えてくれた。柚月さんは昼間の勤務になったため、寮を出ていくらしい。寂しくなる。
「それから、凛も寮の部屋から出ていく」
「凛も?」
衝撃でこれ以上の言葉が出ない。
「凛は大学に行くことになった。フィルさんの勧めで物理を勉強するそうだ。だから研究所にはたまに顔を出す程度になる。那津にとっては少し寂しくなるな」
研究所の寮に女性がいなくなってしまう。でも、柚月さんには毎日少しの時間なら会えそうだし、トリコさんもいるから大丈夫。
「不安はありますけど、トリコさんもいるし」
「トリコさんはダメ」
「ダメってなんですか?」
「トリコさんの皮を被った薫だから。那津の部屋は俺の隣りにしておいた」
カイさんはまだ男性バージョンのトリコさんのことを気にしてる?少し笑えてしまった。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!