無人島の砂浜には、形の崩れた波が寄せては引いていく。潮風が体に纏わりつく。
音弥さんが伸びた髪を後ろで小さく束ねている。キラリとピアスが光った。音弥さんの愛した人の形見は、ずっとそこで見守っている。
誰もが黙って南の空を見ていた。予想では黒い夢魔をつれた芹沢は南からこちらに来るはずだ。
「那津、芹沢には近づくなよ」
カイさんは空を見たまま私に言った。
「はい」
「大丈夫よ。芹沢は私がなんとかするわ」
私の肩に手を置いてトリコさんが、話を始めた。
「芹沢はたぶん、夢魔を操っているんじゃなくて、夢魔に操られていると思うのよ」
「根拠は?」
カイさんは乾いた声で聞いた。
「心に傷がある人間は、弱みを見せれば誰だって夢魔の餌食になる。自分の気持ちを浄化できなかった人間が夢魔に取り込まれたら自分自身が夢魔に乗っ取られるわ」
だんだん強くなる風にトリコさんの髪が乱されている。それでも、横顔はいつもより凛として、美しく見えた。
柚月さんが、夢魔に心を寄せ過ぎてはいけないと言っていた意味がわかってきた。
私達は誰だって悩みを抱えて生きている。弱みのない人間なんて、極少数だろう。
そして、トリコさんは芹沢を倒すのではなく、救おうとしているのかもしれないと思った。
カイさんは立場上、芹沢を倒して研究所の皆を守らないといけない。たぶん、正面から戦おうとしている。じゃぁ、音弥さんは?
音弥さんをちらりと見たら、目が合ってしまった。
「大丈夫。うまくいくよ」
音弥さんは軽く言った。
次の瞬間、急に高い波が砂浜に届いた。私達は少し後退する。
突風が駆け抜け、思わず右腕で顔をガードした。
「なっちゃん、芹沢だよ」
音弥さんが指を指した南の空には、暗闇の中に灰色の大きな雲が浮かんでいるように見えた。やがて近づいた雲は分離して、無数に集まった夢魔だとわかった。
「音弥、那津を頼む」
カイさんがベルトに差したスティックを抜いて、軽く振った。そして程よい長さに伸びたスティックに飛び乗った。
「私が先に行くわ。カイは援護しなさい」
トリコさんも素早くスティックを取り出して、飛び乗るとカイさんの前に出た。
あっという間に二人は空の暗闇に消えた。
今日は月の光がない。黒い夢魔だから浄化せずに空に還すとはいえ、夢魔を弱らせるためには月の光が必要なはず。
「あいつら、ふたりとも短気だな」
音弥さんはふたりを見送ったあと、私に向き直った。
「なっちゃん、今からこっちに来る夢魔は全部俺がなんとかするから、とりあえず歌を歌って。月のない空では、黒い夢魔に効くのは鎮魂歌だけ。絶対にやめないことと、夢魔と戦わないことは約束して」
私は夢魔と戦うには力不足だということはわかっているので、素直に返事をした。
大きく息を吸って、練習した歌を歌った。どこまでも届くように。
すると、近づいてきた黒い夢魔が次第に顔を現した。正確には、感情の塊が人の顔のように見えた。
音弥さんがスティックで夢魔の核の部分を刺していく。心の痛みや苦痛、悲しみが弾ける。感情が心に入ってきてしまう。歌わなければ、負の感情に流されてしまいそうだ。
思わず、しゃがみこむ。
「なっちゃん、大丈夫?」
音弥さんの声が聞こえた直後、通信機から声がした。
「那津が歌っている歌で、黒い夢魔の負の感情は削ぎ落とされる。負の感情が落ちた夢魔は俺たちが倒せば、きっと空に還る。取り込まれるなよ、絶対に」
カイさんの声だった。
黒い夢魔を倒すということは、彼らを助けることにも繋がるんだ。可哀想だからって、同情しても彼らは救われない。辛くても、戦わなきゃいけないんだ。
私は歌うだけでいい。でも実際に戦って夢魔を倒しているカイさんたちは、私よりも遥かに負の感情をぶつけられている。強い精神を持って戦っている。
「大丈夫です。歌い続けます」
歌うことでみんなを助けられるなら、私は負けない。立ち上がって、力を込めて歌を歌った。
次の瞬間、目の前で音弥さんが膝から崩れ落ちた。
思わず歌うのをやめて駆け寄る。
「肋をやられた。大丈夫、なっちゃんは続けて」
「でも」
「なっちゃん、一時の感情でカイやトリコさんまで危険に晒すな。自分の仕事を忘れるな。もう、なっちゃんは研究所の大事な戦力なんだ。歌えなければここにいる意味がないんだぞ」
音弥さんの声が響いた。こんな大事なときに怒鳴られてしまった。
心に音弥さんの言葉が刺さる。なんて痛いんだろう。急に感情がもやもやし始めた。あんなに優しかった音弥さんに叱られてしまった。辛い。
何も言えなくなる。
音弥さんはゆっくり立ち上がったけど、私を見ない。
音弥さんの言うとおりだ。私は歌うために連れてこられたのに、歌をやめたらただの足手まといだ。
早く、歌わなきゃ。でも、うまく息が吸えない。
「音弥!!あんたなんてことを」
通信機からトリコさんの声が聞こえる。
「トリコさん、ダメだ。那津は訓練不足だ。こんなに大きな負の感情に巻き込まれたら、自分を保つのが難しくなる。それに音弥も、怒鳴るなんて普通の状態じゃない」
カイさんがトリコさんを制した。
「まさか…音弥も負の感情に巻き込まれたっていうの?」
「音弥の恋人のふりをした夢魔がいるかもしれない」
カイさんとトリコさんの会話は続いている。けれど、ふたりとも息が上がっている。夢魔と戦いながら私達の心配までしている。負の感情に負けてはいけないとわかっているのに、涙が溢れてきた。歌うことができなければ、私はここにいる意味すらないのに。
止まらない涙を手で拭っていると、トリコさんが戻ってきて、目の前で音弥さんの頬を平手打ちした。
びっくりして、涙が止まった。
「あんたのかつての恋人は、こんなとこにいないわ。空からあんたを見てる。あんたの恋人が負の感情で人を不幸にするような人なわけないでしょ。しっかりしなさい」
言い終わると、トリコさんが音弥さんの耳のピアスに触れた。
「音弥の彼女は、あなたの幸せを願っていたのよ。忘れないで」
「わかってる。トリコさん、ごめん」
トリコさんの言葉は私にも届いた。どんな歌よりも愛を感じた。胸の奥がじんわりと温かくなる。すごい。もしかしたら、私の歌よりも夢魔を鎮められるかもしれない。
今度はトリコさんは私に近づいて、頭に手を乗せた。
「夢魔は心の隙間を狙ってくる。那津に精神的な訓練をする時間を与えられなかったことは謝るわ。でも、那津の価値は歌だけじゃない。そこにいるだけで力になるわ。研究所の人間は足りない部分を補い合って戦ってる。夢魔の感情を入れるくらいなら、私達の愛情を受け取りなさい」
トリコさんが私の頭をくしゃっとして肩を二回叩くと私に背を向けた。そしてまた空に飛び立った。
しっかりしなきゃ。
「音弥さん、ごめんなさい。今度はちゃんと歌いま……」
最後まで言う前に、急に音弥さんに抱きしめられた。私は体が硬直する。
「なっちゃん、ごめん。俺が守らなきゃいけなかったのに。でも、喝が入ったから大丈夫」
音弥さんはそう言うと私からぱっと離れた。
全部まるごと優しく受け止めてもらったみたいだ。
「わかってます。音弥さんの言いたかったこと。私こそ、ごめんなさい。夢魔の感情に流されたかもしれません」
「なっちゃんがそうなることは想定済み。俺が悪い。だからトリコさんに怒られた。さぁ、歌って」
音弥さんに促されて、私はまた歌い出した。今度はちゃんと、夢魔を空へ還すために。
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