風が止んだ。
柚月さんと私は外に出て、研究所の前に広がった芝生の上に立った。
湿った空気が体に纏わりつく。
離れて立っている数本の木が葉を揺らせ、ザワザワと音がした。
建物からの光が届いているので、月が出ていなくてもある程度見渡すことができるが、見上げた空はまだ厚い雲に覆われていている。
「中途半端に月の光が届くくらいなら、このままのほうがマシね」
柚月さんが呟いた。
確かに少しの光は夢魔のエネルギーにはなっても、浄化するには足りない。それならば、月は出ない方がいい。
私にもなんとなくわかる。
「夢魔が風をおこして雲を飛ばしてしまうことはないんですか?そしたら、月の光を調整されてしまう気がするんですけど」
「災害を起こせるくらい力を持った夢魔か、大群なら可能性はあるわ。だから、そうなる前に浄化しなくてはいけないの。黒い夢魔なら退治しかないけど」
ということは、もしかしたら夢魔を操れる芹沢なら、月の光を調整できるかもしれない。
だけど、それができるならば、なぜ今までやらなかったのか疑問が残る。
今、反応している夢魔は、芹沢と関係ないのだろうか。
感知計が大きく反応して、私達の隣を強い風が通り抜けた。
とっさに右腕で顔を庇う。
「那津、来るわよ。まずは夢魔を観察して、それから夢魔に合った歌をお願いするわ。向こうが攻撃してきたら、躊躇わずスティックで応戦して。ただし、夢魔の心臓だけは刺さないように」
実践に行くにはあまりにも準備が足りないことはわかっていたが、緊張が体を固くする。
「夢魔の心臓ってどこですか?」
「夢魔に近づくとわかるわ。丸くて本体と違う色で光ってるから」
「わかりました」
まだスティックに乗って空を飛ぶ練習をしていない私は、地上から、辺りを見回す。
柚月さんは、空に大きく弧を描くように飛んでいった。
ピピピピピピ。
通信機が鳴った。
「那津、黒い夢魔が来るわ。たぶん操っているのは──」
「やはり、芹沢ですか」
「ええ」
次の瞬間、柚月さんを黒い影が囲った。黒い夢魔だ。
柚月さんを助けるためには、ここから空に届くように歌を歌って夢魔を鎮めるしかない。
大きく息を吸った。
「無駄だよ」
目の前に、芹沢が現れた。どうやら黒い夢魔と一緒に飛んできて、自分だけ地上に降りたようだ。
私はベルトに挿したスティックに右手を伸ばした。だが、このスティックを抜いてしまえば、戦いが始まってしまう。右手を止めて、様子をみる。
「今日は制服まで着てるんだね。僕に対する嫌がらせかな」
一定の距離を保ったまま、芹沢が話しかけてきた。
「嫌がらせではなく、私は研究所に就職するんです」
「そう。やっぱり君もカイを選ぶの?」
芹沢は、カイさんへのこだわりが強い。敵視しているというより、執着しているような気がする。
「カイさんは関係ない。私はやっぱり黒い夢魔は、空に還ったほうが幸せだと思っただけ」
亡くなった夢主の負の感情ばかりが取り残されて黒い夢魔になったと思うと、息が詰まりそうになる。
「今日は音弥が会いたい夢魔を連れてきたんだけど、それでも君は、この黒い夢魔たちを消せるかい?」
芹沢が空を見上げた。
柚月さんを囲んだ夢魔たちは動いていない。柚月さんからの通信もない。あちらは膠着しているようだ。
芹沢は音弥さんが会いたい黒い夢魔があの中にいると言うのか。
──黒い夢魔は、亡くなった人の負の感情だ。夢魔が音弥さんに会いたいのではなく、音弥さんが会いたい黒い夢魔なんているのだろうか。そもそも研究所の人たちは、夢魔に心を寄せないようにしているのだから、そんな特別な夢魔なんて……。
私は出会ってから、これまでの音弥さんの言動を振り返ってみた。
まさか。
「音弥さんはここには来ない」
私と芹沢の間に遮るものはない。黒い夢魔もいない。風さえも静まり返っている。
「それが君の願望かな?」
「私の願望は、あなたが夢魔を開放することです」
なぜだかわからないけれど、この男にだけは負けたくないという感情が湧いてくる。
ふと、芹沢が私に集中している間は、柚月さんの周りの黒い夢魔に指示を出せていないのに気づいた。
「無力な君が?」
芹沢は鼻で笑った。
例え無力だったとしても、私が時間を稼げば、柚月さんの負担は減る。今のところ、攻撃してくる気配はないし、会話を長引かせてみよう。
「私はひとりでは何もできないってわかってる。だから、少しでも研究所の人たちの力になりたい」
自分の言葉でハッとした。
芹沢も同じなのではないだろうか。戦いの場面で連れてくる夢魔の数が大量なのは、不安や孤独の現れかもしれない。
芹沢は返事をしない。
カイさんの周りには仲間がいるのに、芹沢はいつもひとりだ。
だから、私を仲間にしようとした理由は、カイさんから人を奪って自分の近くに置くことで、孤独や劣等感を紛らわせようとしたのかもしれない。
待って。芹沢からは負の感情しか読み取れない。まるで、芹沢自身が夢魔のようだ。
「君は、その力になりたい研究所の人間を悲しませてもいいのか?さっきも言ったが、音弥の会いたい夢魔がどうなってもいいのか?」
そうだった。
たぶんその黒い夢魔の夢主は──。
ピピピピピピピピピ。
通信機が鳴った。
「こちら音弥。今、そっちに向かってる。話は全部聞いていた。なっちゃん、俺は会いたい夢魔なんていない。気にするな。それより、自分を守れ」
音弥さんは、言いたいことだけ言うと通信を断ってしまった。よほど急いでこっちに向かっているらしい。
それにしても、なんで音弥さんが芹沢の話を聞いていたんだろう。
ふと自分の腕につけた通信機が通信中のままだと気づいた。確か、この通信機は相手側か自分が通信を切っていなければ、みんなに繋がったままとなる。さっき、柚月さんと会話したまま通信を切っていなかったので、すべての会話が音弥さんにも聞こえたわけだ。
「音弥は、最後の思いすら犠牲にするんだな」
「あなたはその人の最後の思いを利用しようとしたじゃない」
音弥さんが会いたい夢魔は、たぶん亡くなった恋人に違いない。あんな風に言ってたけど、会いたいと思う。そして絶対に救いたいと思う。
「違うな、夢魔に、居場所を与えてあげただけだ」
芹沢が両手を上に伸ばして、振り下ろした。
何が起こったか理解する前に、私の体は木に打ち付けられた。
背中に痛みが走る。
突風に飛ばされたのだ。
ゆっくりと芹沢がこちらに歩いてくる。
木の幹を支えに立ち上がる。鈍痛がする。
強い。こんな風を起こせるなんて、上級の夢魔みたいだ。
私は右手でベルトに挿したスティックを抜いた。
やるしかない。
スティックの先端を芹沢に向けた。
すると、なぜか先端がキラリと光った気がした。
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