カイさんが車に戻ってきた。
「カイさん」
ほっとして声をかけた。
しかし運転席に座ったカイさんの表情は重苦しいものだった。
「なぜ約束を破った?」
カイさんは私と目を合わせず、静かに言った。
心臓がぎゅっと掴まれたように痛い。
私は、カイさんの力になりたいと思った。でも、思い上がりだったのかもしれない。そう思うと返事ができない。
「すみません」
やっとのことで絞り出した声は、少し震えていた。元々親しかったわけじゃないけれど、嫌われてしまったかもしれない。
「那津は、素人だ。下手に歌えば危険なだけだ」
夢魔に会う前のカイさんとは空気が違う。怒っているんだと思う。
私は更に何も言えなくなる。
「研究所に帰るぞ」
カイさんは、それ以上私を責めることはなかった。その後は何も言わなかったので、車内は静まり返って、張り詰めた空気が漂う。
夢魔のおかげで遠回りしたので、これからまだまだ研究所への道のりは長い。
約束を守れなかった私は上を向けない。
張り詰めた空気を切るように、電子音が鳴った。カイさんへの電話だ。
「ちょっと、カイ!!通信機の電源、まだ入れてないの?」
柚月さんの声だ。通信機はさっきまで繋がっていたはず。
「すまない。壊れた」
何事もなかったような、いつもの声でカイさんが答えた。
「壊れたって、どういうこと?」
「夢魔の攻撃を腕で受けたら、破壊された」
「大丈夫なの?」
「あぁ、でも夢魔には逃げられた」
逃げられたのは、私のせいかもしれない。
「浄化できなかったの?」
「すまない。でも、予想通りだ。問題ない」
カイさんは短い返事しかしない。電話がきても、車内の空気は変わらない。
ただ、通信機が攻撃を受けて壊れたのなら、私がカイさんに怒られたことは、柚月さんや音弥さんには聞こえていなかったかもしれない。いや、聞こえていなくても、事実が消えるわけではないけれど。
「那津は?もちろん無事でしょ?」
「安心しろ。無事だ。これから研究所に向かう」
私は、体温が全て奪われていくような気分だった。
夢魔に会うまでは、カイさんと会話することができていたのに。今は、顔を上げることさえできない。なぜ、歌おうと思ったんだろう。
後悔が頭の中をぐるぐる回る。
どうしよう。
私は就職の内定を受けたわけじゃない。そして、研究所のトップであるカイさんの指示に従わなかった。私の就職は、なくなるかもしれない。
頭から被っていたストールが、私とカイさんの間に薄い幕を作っている。
見た目以上に距離を感じる。
カイさんから、私の表情が見えないのが救いだった。
重たい気持ちのまま、車は再び高速道路の入口に来た。
車が大きくカーブを曲がるとき、ふわりといい香りがした。ストールの香りだ。
カイさんが、好きだと言った落ち着く香り。
爽やかだけど、ほんのり甘くて柔らかい。
本当だ。少し落ち着くかもしれない。香りに守られているみたいだ。
守られて──そういえば、カイさんは夢魔と戦う前に私に「守るから、心配しなくていい」って言ってくれた。
それに、その言葉の前にカイさんを信じるって約束をした。
夜の田舎の高速は交通量も少なく、車は順調に走っていく。
研究所に着いてしまえば、カイさんとふたりで話す機会はないかもしれない。
いつも流されてきた私が、働きたいと願った研究所への就職も、出会った人達との繋がりも、このまま失うのは嫌だ。だったら、カイさんに拒否されたとしても、ちゃんと自分の気持ちを話さなきゃいけない。
私は両手に力を込めた。
この勇気が失われる前に、カイさんにもう一度きちんと謝って、次からは必ず約束は守るって言おう。
カイさんは私が正面から話せば、必ずちゃんと話は聞いてくれるはず。もしも悪い結果でも、何もせずに諦めるよりも、自分の気持ちを話そう。
顔を上げて、ストールを取った。運転しているカイさんの腕に視線をやった。
「次のサービスエリアで少し休憩しよう」
思いがけないカイさんからの提案だった。
「はい」
やはりまだ覚悟が足りなくて、返事するのが精一杯だった。
もしかしたら、ここで、見学すら許されず送り返されるかもしれない。そうなる前に、サービスエリアの駐車場に車が止まったら、必ず言おう。
早くなる鼓動を感じながら、タイミングを待つことにした。
車が駐車場に停車した。
急いで自分のシートベルトを外し、カイさんが車の扉を開ける前に、慌ててカイさんの左腕を掴んだ。
ストールが、カイさんと私の座席の間にするりと落ちた。
驚いたような表情で振り返るカイさん。
「待ってください」
カイさんは座り直してこちらを向いた。
思った通りだ。カイさんは、私が正面から話せば、ちゃんと聞いてくれる。
「さっきのは、本当に私が悪かったです。ごめんなさい。でも、少しでもカイさんの力になりたくて。力になれるなんて思い上がりだったんですけど、歌わないという選択肢がなかったんです。本当にごめんなさい。声を出さないって約束を守れなくて」
カイさんは真剣な表情でこちらを見ていた。そして、落ちたストールを拾って私の頭から被せた。
私の視界はストールで遮られた。
「それだけじゃない。もうひとつ約束を破ったな」
外には出ていない。もうひとつは、カイさんを信じること──。
「信じられなかったか?守るから心配するなって言ったこと」
信じてた。だけど、それ以上にカイさんの力になりたくて……。あれ?それはカイさんが夢魔に負けると思ったことになるの?
「ちがっ」
違うと言いかけたところで、ぐっと体を引き寄せられた。私の顔は、カイさんの胸の中。
「那津のこと、心配したんだ。無事でよかった。それから、怒ってすまなかった」
カイさんの声は、優しく、落ち着いていた。
ストールの中で、溢れそうになる涙を堪えた。私、カイさんに嫌われたわけじゃなかったんだ。心配したから、叱ってくれたんだ。
今、顔が見られなくてよかった。
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