私がバンドのメンバーになる数年前。今日のような細い月の日に、私はあの人の歌声を聴いた。
心臓がざわざわするような低音と、どこまでも響くハイトーンと、全てを包む優しさがあるのに、どこか切ない声だった。
まだ歌うことを知らない私の心も、大きく揺さぶられた。
あの日も窓を開けて、夜空を眺めていた。
外灯のおかげで、畑の中を通る道に立つ人影が見えたので、たぶん声の主だろうと思った。
あの日からあの人の歌声を思い出すたびに胸が締めつけられる。
この感情は、尊敬か、嫉妬か、恋か、畏怖なのか──とにかく、私の心は囚われたまま。
あんな風に歌えたら。
でも、今思えば、なぜ囁くような低音まであんなにもはっきりと聴こえたのか不思議に思う。
家の真下で歌っていたのならわかるけど、辺りを見回して声の主を探しても、人影は離れた場所にぽつんとひとりしかいなかった。
あれは、夢だったのか。だんだんと記憶は薄れていくのに、耳はまだ覚えている。
またあの声が聴きたい。
渡された小さなマイクに向かって、私は無意識にあの人を思い出しながら歌っていた。
謎の男性が、ここに戻るまで歌い続けてみよう。
「違う、そうじゃない」
小さなマイクから声が聞こえた。男性の声だ。さっきの人の声だろうか。
通信ができるのかな、これ。
マイクを摘んで覗き込もうとした瞬間、カラン、カツ、コツと屋根に当たり、下に落としてしまった。
ヤバい。きっと、返さなきゃいけないものだ。
慌てて部屋から出て、階段を駆け下りた。
サンダルを足に引っ掛けて、玄関の扉を開ける。庭に出て、私の部屋の下付近に来たが、暗くて小さなものを探すのは困難だと気づいた。
しまった。懐中電灯かスマホを持ってくれば照らせたかもしれないのに。
「仕方ない、もう一回部屋に戻るか」
玄関へ向かおうとすると、玄関前で手を振る人がいる。
さっきの男性だ。
近づいて、渡されたものを落としたことを告げると、男性は手に握っていたマジックほどの大きさのスティックをくるっと回転させて、男性の身長ほどの長さに伸ばし、小さなマイクを磁石のように吸い付けて、あっという間に回収してしまった。
「いろいろと、説明が、必要?」
男性は私としっかり目を合わせた。背は高いが、玄関から漏れただけの薄明かりの中では年齢不詳だ。
「はい、それはもちろん」
この状況で、説明が必要ない人なんているんですかと逆に聞きたいくらいだ。
男性がスティックでトンっと地面を叩くと、スティックが元のペンほどの長さに戻った。
「じゃぁ、明日説明しに来るよ。俺は、音弥。先に会ったのが、柚月。今はそれだけ覚えておいて。それから今日のことは、いろいろと説明が面倒くさいから、誰にも言わないでくれると助かる。君の名前は?」
「那津、ですけど」
「なっちゃんね、了解。悪いけど、今日はもう遅いし、話すと長くなるから全ては明日話すよ」
そう言うと、音弥さんは視線を少し下にずらして笑いながら「じゃぁ、夕方は家にいてね」と付け加え、私に背を向けた。
そして、スティックを回して伸ばすと、ひょいっと横にしてその上に立った。流れるような動作で、そのままに空に飛んでいった。
あの棒で空を飛べるのか。またがっていなかったけど、魔女のホウキみたいだな。
いや、そんなことより、明日説明に来るって言ってたけど、何を?
しかも、誰にも言わないでって……人間じゃないとか?もしかして、本当に魔女?いや、あの人は男だったから魔女じゃないか。
心の中は独り言でいっぱいになる。
私、見てはいけないものを見てしまった?
混乱しすぎて、今から眠れる自信がない。明日は月曜。学校があるのに。
下を向いて、自分がパジャマを着ていることに気づいた。
音弥さんの視線を思い出す。
初対面の人に、堂々とパジャマで会ってしまった。今更、顔が赤くなる。
でも、私は悪くない。寝る直前だったし、急に来たのは向こうだし、そもそも相手は人間じゃないかもしれないし。
あ!しまった。桃香の電話も途中だった。
説明もできないので、明日、ただただ謝るしかない。
どっと疲れがでてきた。
仕方ないので自分の部屋に戻って、今日はもう何も考えず寝よう。
さっき慌てて外に出たため、部屋の窓が空いていた。緩やかな風が部屋に入っている。
窓を閉めようとすると、微かに外から歌声が聴こえてきた。
あの人の声だ。
あれから、数年。ずっとずっと待ち焦がれていた声。
鼓動が早くなっていく。
窓から身を乗り出し、声の主を探す。
外灯の明かりで見える範囲の畑や道路には人影はない。私の部屋から見えない方角にいるかもしれない。
でも、家族はみんな寝ているので、他の部屋に忍び込むわけにもいかず、姿を確認することは諦めざるを得なかった。
耳をすませる。
遠くにいるのに、歌詞もはっきりとは聴こえないのに、胸を打つなんて。
やっぱりあの人の歌は、私とは違う。
また思い出してしまった。
私の歌には魅力がないと言われたことを。
ほんの一瞬、考えごとをした瞬間に、もうあの人の歌声は消えていた。
誰なんだろう。歌の練習でもしているのだろうか。
名残惜しさが残るが、窓を閉めた。
時計を見ると深夜2時を過ぎている。
うわっ。早く寝なきゃ。
慌ててベッドに潜り込んだ。
でも、いろいろなことがありすぎて、まだ興奮状態だ。
とにかく、明日。
早く眠れ。自分に言い聞かせて目を閉じた。
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