コンコン。
トリコさんの部屋のドアがノックされたのは午後10時だった。
夕食を済ませたあと、話に夢中でこんな時間になっていたことに気づかなかった。
トリコさんが人差し指を口の前に持ってきて、静かにとジェスチャーをした。カイさんと音弥さんは仕事中のはずだから、誰が来たんだろう。
トリコさんがガチャリと扉を開いた姿を部屋の奥からこっそり見ていた。トリコさんは、左手でドアノブを持ち、右側の壁に右手を置いている。ここからは外の様子は見えない。
気になって見ていると、柚月さんに静かに腕を引っ張られた。促されて扉の見えない位置に移動した。
トリコさんの声が聞こえる。
「プライベートで来てるから、カイに指図はされたくないな」
ここに来たのはカイさんのようだ。静かに耳をすませる。柚月さんもふたりの会話に聞き耳を立てている。
「だが向こうはまだ高校生で、うちに就職する大切な人材だ。卒業までに問題行動は起こしてほしくない」
カイさんは私がここに来ていることを注意しに来たみたいだ。
「へぇ。那津が俺の部屋に泊まることの何が問題なわけ?まだ就職前だから、カイは那津の上司でもなければ、家族でも彼氏でもないでしょ。口出しする権利ある?」
トリコさん、カイさんを煽ってる?心配になって柚月さんを見ると、小声で大丈夫だと言って微笑んだ。
カイさんとトリコさんの会話は続いている。
「トリコさんも常識のある社会人だろ?」
「わかんないな。プライベートまで会社に管理されたくないし、だいたい俺は他人から誤解を受けないように、ここで会ってるだけだし」
「トリコさんは那津のことが──」
「好きだけど?なんか文句ある?」
トリコさんが完全にカイさんに喧嘩を売った。トリコさんの好き発言はカイさんが誤解する。と思った瞬間、ばんっと音を立てて柚月さんが立ち上がった。
「那津は出てこなくていいわ。私に任せて」
ひとこと残して玄関へ向かう。私はその背中を目で追った。ただ、カイさんの前に出るタイミングは失ったので、部屋の奥で待つことにした。
「トリコさん、そのへんにしておいたら?」
「出て来なくてもよかったのに」
「私は那津の味方なの。だから出てくるわ。だいたい冷静に考えてここにトリコさんと那津がふたりきりで泊まるわけないでしょ。今までだってずっと私が一緒だったわよ。トリコさんの演技に気づかないなんて」
柚月さんがカイさんに話しかけているようだ。
「わかったら、安心して仕事に戻りなさい。カイは今、那津には会えないでしょ。自分でふたりきりでは会わないって言ったんだから」
トリコさんの声がしてすぐに部屋のドアを閉める音がした。
柚月さんが出ていってから、カイさんの声は一度も聞えなかった。なにか話したのだろうか。
部屋の奥で待っていると、柚月さんとトリコさんが戻ってきた。そして、大笑いした。
「カイのやつ、絶対に俺に嫉妬してたな」
「トリコさんが煽るからでしょ。でも、なんでカイは自分の気持ちにだけ鈍いんだろうね」
柚月さんが大袈裟にため息をついた。
「そういうことだから、カイは那津が大切すぎていろいろ見失ってるだけだよ」
トリコさんの声が優しく響いた。カイさんがもしも私を大切に思ってくれているとしたら、それだけで嬉しいはずなのに、まだ心のもやもやは消えないでいる。
そして次の日、まさかの事態が発生した。
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