約束の時間にリビングに現れたカイさんは、全身真っ黒の制服を纏っていた。ベルトにはスティックが何本も挿してあった。
夢魔による台風はまだ遠くの海上のはずなのに、戦闘態勢に見える。
「気合十分じゃん?」
音弥さんが声をかけた。
「台風本体と芹沢が一緒に来るとは限らないからな。それより、少しは動けるだろ?」
カイさんが自分のスティックをベルトから抜くと、音弥さんに投げた。緩く回転したスティックを音弥さんが手を伸ばして受け取った。
「まったく、うちの所長は人遣いが荒いよ。ねぇ、なっちゃん」
椅子から立ち上がる音弥さん。
「大丈夫なんですか?」
「うちの発明家さんたちが凄腕で、コルセットで痛みは軽減されてるし、痛み止めも効いてる。大丈夫、今まで大事をとって大人しくしてたからね」
「万が一のときのために、月の光を集めてくれ。それから──」
「わかってるよ。柚月とトリコさんへの報告と夢魔の動向確認。なっちゃんの安全確保だろ?」
「鈍ってなかったか」
「当然だろ」
ふたりが話し終えたので、皆で外に出た。
声の響きを見るために、まずはカイさんが歌を歌ってくれることになった。
カイさんは靴で勢いよく地面を蹴ると、手に持ったスティックを上手に伸ばして跳び乗った。そのまま上に飛んで、屋根の上に立った。
下からカイさんを見上げた。星空に包まれたカイさんの影が見える。
カイさんは夜空を見上げて、歌い始めた。
綺麗などこまでも透き通る声。
──この声、聴いたことがある。いや、忘れたことなんて一度もなかった。恋しくて恋しくて、もう一度聴きたいと願った声が、まさかカイさんの声だったなんて。
顔を覆って地面の芝生の上にしゃがみこんだ。全身に鳥肌が立つ。
「なっちゃん、大丈夫?調子悪い?」
音弥さんがすぐに声をかけてくれた。
私は立ち上がって答えた。
「音弥さん……私の初恋の声が……カイさんだったんです」
こんなに近くに居たなんて。震えが止まらない自分の体を両手で抱きしめた。
音弥さんが、私の肩に手を置いた。音弥さんとカイさんには、初恋の声の話をしたことがあったから覚えていてくれたんだと確信した。
「なるほど。カイの声なら納得なんだけど、なっちゃんは今お仕事中なので、私的な感情抜きにしてカイくんと歌ってもらうしかないよ?」
音弥さんは、当たり前だけど厳しかった。慰めや共感、ましてや応援なんて優しいものを期待していた自分に気づく。こういう時、男性が共感なんかしてくれるわけないんだ。ちょっと孤独を感じながら、甘えている場合じゃないことは理解した。
足が震えている状況をどうにかしなければ。どうにかしなければと思えば思うほど震えが止まらなくなる。早くしなければ、カイさんの歌が終わってしまう。
次の瞬間、私の目の前で怪我をしているはずの音弥さんがスティックに乗って飛んだ。丁寧に空で宙返りをして円を描いたあと、カイさんの隣へ降りたのが見えた。
その後、歌い終えたカイさんが屋根から下りてきた。
「大気は安定してるし、声の響き方も悪くない。練習しながら、夢魔を牽制するにはちょうどいい」
いつもと変わらないカイさん。音弥さんは私が言ったことをカイさんには言わなかったのだろうか。
「今から練習するんですか?」
声が震えないように注意しながら話した。
「もしも那津が、できるのであれば」
カイさんは空を見上げたまま答えた。
研究所から漏れてくる光でカイさんの横顔が見える。でも、表情までは読み取れない。
恋した声がカイさんのものだったなんて、告白したも同然なのに。告白が届いたかどうかを確認できない。というか、私情すぎて確認することすら許されない状況な上に、その相手と歌うなんてできるんだろうか。
「練習した歌が無理なら、那津のバンドの曲でもいいぞ」
「でも、今日はハモりの練習するって聞いたんですけど」
「できるの?」
「やります」
そのために練習してきたのだから、やらなければ、音弥さんに叱られそうだ。何より私は歌うために研究所にきたのだ。
「じゃぁひとつだけアドバイス」
「なんですか」
「那津の耳は一流だから自信持っていい。何も考えずに歌え。あとは俺が全部なんとかする」
やっぱり……音弥さんから聞いたの?聞いてないの?どっち?
「あの、カイさん」
思い切って自分の口から言ってしまおう。私の初恋はカイさんの声だったって。
私が決心すると同時に、カイさんが言葉を発した。
「過去の記憶は美化されがちだからな。那津の初恋の声よりいい歌を聴かせてやるよ」
カイさんが振り向いて手を差し出した。
この人、やっぱり聞いてたんだ。知ってたんだ。力が抜けそうになった。
「上に行こう」
カイさんは、私の手首を掴んだ。そのままカイさんのスティックに乗せられた。
スティックは、長さは自在に伸びても太さは変わらない。まだ初心者の私にはふたり乗りはバランスが取りにくく、カイさんに肩を抱かれたまま乗ることになってしまった。
少しへっぴり腰だったのが情けない。照れている余裕もなかった。
私達は音弥さんがいる研究所の屋根ではなく、隣の社員寮があるセカンドハウスの屋根に降りた。
カイさんに促されて、私は大きく息を吸った。そして、練習した歌を歌った。
カイさんはひとりで歌っていたときよりも優しい声で、私の声を包んだ。自分の声が誰かの声に溶けていく感覚は初めてだった。
気持ちいい。声がどこまでも届きそう。
夜風に揺れたカイさんの髪が時折光って見えた。
私はこの日のことは一生忘れない気がする。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!