研究所のリビングに戻ると、もうすぐ日付が変わろうとしていた。
トリコさんが作りおきしてくれていたサンドイッチやスープを食べて、解散となった。
柚月さんは、音弥さんの様子を見るために病院に寄ったあと、寿太郎さんと住む家に帰ると言って研究所を出ていったので、カイさんとトリコさんと私だけが研究所に残った。
「カイも那津も、昼間ずっと活動してたから眠いでしょ?もう大きい夢魔が出る気配もないし、研究所には私がいるから寝てもいいわよ」
食事の片付けをしていると、突然、トリコさんから提案された。
「俺は大丈夫。それよりトリコさんこそ、少しは休んだら?」
カイさんが、棚に食器をしまいながら返事をした。私はキッチンテーブルを拭きながら、二人の会話を見守った。
「那津は少しここに残って。話があるから」
話がある──そう言われて、いい話だった記憶はない。さっき音弥さんに、この仕事は私には難しいと言われたばっかりだし、心の奥が不安定に揺れるのを感じた。
顔をあげて、無意識にトリコさんを見てしまった。
「大丈夫よ。いくらカイだって、那津のことを取って喰ったりしないから。じゃ、私はシャワーでも浴びて来ようかしらね」
トリコさんはささっと手を洗うと、私に軽く手で合図して部屋から出ていった。
カイさんはトリコさんの言い方に苦笑している。
カイさんと、ふたりきりになってしまった。
「なんか飲む?」
カイさんが冷蔵庫を開いて、缶ジュースを取り出した。その手には炭酸ジュースがあった。カイさんが炭酸ジュースを飲むことが意外だった。
「あとは、麦茶とか水とか缶コーヒーもあるけど」
私は不安のまま、水のペットボトルを受け取った。
カイさんは缶ジュースの蓋を開け、それを持って、リビングのソファーに座った。
私も続いてソファーに座った。でも、失敗だった。テーブルを挟んでカイさんの真向かいに座ってしまったので、一気に緊張感が増す。かといって、離れたところに座るのも変だし、カイさんの隣りに座るわけにもいかないので、やはりここしかなかったのかもしれないけど。
ふと見ると、カイさんはノートパソコンを開いてカチカチとキーボードを操作し始めた。
カイさんは私がどこに座るかなんて気にもとめていないだろう。そんなことよりも私にとってはカイさんの『話したいこと』の方が大問題だ。
心を落ち着かせるために、水を飲もうとペットボトルの蓋をひねった。──開かない。カイさんの視線が私の手元にきている。
わざとじゃない。普通なら簡単に開くはずのペットボトルの蓋が、固くて動かない。これでは、か弱いアピールをしているみたいで、恥ずかしくなる。
「貸して」
見かねたカイさんが私の手からペットボトルを取った。
自分の手元に持っていき、手をひねると、パキっと乾いた音がして、蓋は簡単に動いた。カイさんは蓋を緩めたペットボトルを私の前にそっと置いた。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
基本的にカイさんは優しい。でも、結論が決まっていることを遠回しな言い方はしない人だと思う。それなのに今日は、どうでもいい雑談を始めた。
そして一通り話し終えると、居心地の悪い沈黙が流れた。
水をひと口飲んで、心を落ち着かせる。もう本題に入ってしまう空気だ。
「実は今日、通信機でずっとみんなの会話を聞いてた」
カイさんの言葉に緊張が走る。テーブルの上のペットボトルを見つめた。
「まず、全ての出来事において、那津に責任はない。新月に夢魔が動いてこないと判断した上に、芹沢の危険性を甘く見ていたのは俺の責任だ。悪かったな」
「いえ」
急に謝られても、うまく返事ができない。それに、話がこれだけで終わるはずがない。
音弥さんの言葉が頭の中で繰り返す。
「ただし」と切り出して、カイさんが話を続けたので、私は覚悟を決めて背筋を正した。
もしクビを言い渡されても、私はここに残りたい。そのためには、冷静でいなくてはならない。
「音弥の怪我を見てわかったように、危険な仕事であることには変わりない。もしも那津がここで仕事ができないと判断したとしても、那津さえよければ、本社で仕事をできるようにする。巻き込んだ以上は就職は最後まで面倒みるから」
淡々と話すカイさんの話を、私は黙って聞いていた。
ネガティブに捉えれば、研究所での仕事をできなくなる可能性もあるということだ。カイさんも音弥さんと同じ考えなのだと思った。
カイさんは更に話を続けた。
「俺も音弥も迷っている」
意外な言葉に私は顔を上げた。何を迷っているんだろう。
私の目を見たあと、カイさんは視線を外した。
「夢魔と戦っていたときに、音弥は那津に歌うことを許可した。俺もその決断を指示した。あの時は、那津の声だけしか夢魔に届かないと思ったから、危険を承知で許可した」
ということは、あのときは間違いなく私の歌は必要とされていた。それなのに今は、研究所からの異動の可能性を示唆されている。
「許可されたので歌いましたけど、音弥さんにはこの仕事を続けるのは難しいと言われました。それに今、カイさんからも」
歌わせてみたら、違ったのだろうか。少しだけ声が震えた。
「音弥がそう言ったのは、那津は感情移入して苦しむ可能性があるからだろうな。俺もそう思う。那津の声は夢魔に届くが、夢魔の心も那津に届きやすいということだ」
最初からずっと忠告されていたことを思い出す。夢魔に、心を寄せすぎないようにと。
ガチャリとリビングの扉が開いて、トリコさんが戻ってきた。上下ビビッドのピンクスウェットなのに、スラリと伸びた手足のせいか、カッコよく見える。
「カイってさ、可愛くないのよね。話し方が。那津が緊張で固まってるわよ」
「悪い。リラックスして聞いてもらっても構わない」
「あんたさぁ……。まぁ、いいわ。話の続きをどうぞ」
「もう終わったが」
「全く、音弥といい、カイといい、ここの男はどれだけ役立たずなの。途中からしか話は聞いてないけど、絶対に話してないことあるでしょ」
トリコさんが座っているカイさんの隣に立った。
「いい?あんたたちは、言葉足らずなの。あの言い方では那津のことを責めてるだけだからね。理由を言いなさいよ、理由を。芹沢のことを話しなさい」
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