あれから一ヶ月。特殊気象研究所の人達からの連絡は一度もない。
「では、進路希望調査のプリントを回収します」
教室では、ホームルームの時間に担任の先生が現実を突きつけてくる。担任は女性で、いつもテキパキと動き、隙がない。
こんな人でも進路を決めるときは悩んだりしたのだろうか。
私は窓際の一番後ろの席で、プリントの提出のために席を立つクラスメートを眺めていた。
今年はもうバンドの活動はない。受験一色で頑張る予定だった。進路希望調査票にも、第一希望から第三希望までの大学を記入した。あとは提出するだけだ。
プリントをじっと見つめる。これを提出してしまえば、目指すべき道が決まる。
魅力がないと言われたまま、歌から遠ざかっていく。でも、受験を優先することは決めていたことだ。
「プリントの提出がまだの人は、明日までに出してください。進路希望について相談がある人は、本日中に先生に申し出てください。では、一限目の準備をするように」
担任が教室を出ていく。
私は、出せなかった進路希望調査票を机の中にしまった。
突然、カイさんの言葉が脳裏をよぎった。
『人に否定されたら諦めるのか?自分を信じられないなら、歌うこと自体やめたほうがいい。うちの研究所にも向かない』
進路希望調査票は現実を生きるための指針だ。だから例えば、ここの第一希望の欄にプロの歌手志望と書いたら、何を言われるかはなんとなく想像がつく。そんな茨の道を進むことは考えられない。
私はただ、歌うことが楽しかっただけで、プロになれるとは思っていなかった。──それなのに、誰かに褒められただけで、その気になった。そして否定されたら、言われたことを引きずった。
よく考えたら、ボーカルを始めたのも桃香が私を誘ってくれたからだった。
受験希望の大学も、家から近くて成績に見合うところを選んで書いただけ。
私は自分の強い意志で何かを決断したことがあっただろうか。
一限目の数学の授業が始まった。数式は全く頭に入ってこない。こんな中途半端な状況で受験なんてできるのだろうか。
ノートに綴った文字が、ふにょふにょと踊っている。
私はただ、卒業後もみんなと一緒にいたかっただけなのかもしれない。
カイさんが言った『否定されたら諦めるのか?』の言葉の意味は、『歌うことは、否定されてももがき苦しんでもやりたいことじゃなかったのか?』ということだろうか。
流されてばかりだから、進路希望調査票も提出できない。
もしかしたら、覚悟のない歌を審査員に見透かされたのかもしれない。こんな中途半端な歌じゃ、コンテストを勝ち上がるのは無理だったんだ。
放課後、隣の教室へ走った。桃香と春斗、それから駿太を捕まえた。
「ごめん。私、本気でコンテストを勝ち上がりたいと思ってなかった。もしも勝てたらラッキーだな〜くらいで。だから私は、審査員から見たら中途半端な歌しか歌えていなかったんだと思う」
三人は真剣な顔で聞いてくれている。
ボーカルが私じゃなければ、もっと評価されたかもしれないと思ったのに、ずるずると心地よい場所に居座ってしまった。誰かの人生を預かる覚悟もないのに。
まだ教室には数人の学生が残っていたので、チラチラと視線を感じた。
構わず、春斗が近くにあった椅子に座った。
「それ、どういう意味?」
少し不機嫌そうな声。なだめようとしてなのか、桃香も椅子を移動して春斗の横に座った。
駿太は窓際の壁にもたれてこっちを見ているけれど、何も言わない。
「もっと覚悟決めて歌っていればよかった。本当にごめん。私がボーカルじゃなければ──」
「那津、まだそんなこと言ってるの?あの審査員はボーカルに魅力を持たせるためには、演奏も未熟だっていう意味で言ったんだと思うよ」
「俺もそう受け取った。駿太以外はな」
春斗が駿太に視線をやった。私も桃香もつられて駿太を見る。
「駿太は確かに上手だって、他のバンドの人も言ってたよね。けど春斗だって、いろんな人に声かけられてたじゃん」
明るい桃香の声が空回りした。駿太は何も言わない。
痺れを切らした春斗が口を開いた。
「この前、コンテストの運営側に呼び出されただろ」
春斗の機嫌が悪いのは、この件のせいだろうか。
「どういうこと?」
桃香と私は顔を見合わせた。
「みんなが揃ってから話そうと思ってたんだ。春斗はたぶん勘違いしてる。俺が呼び出されたのは、俺だけが認められたってわけじゃないから」
「じゃぁなんなんだよ」
話が変な方向へ発展していく。
「コンテストの二次選考に漏れたバンドの参加者の中から選ばれた数人で、新しいバンドを組んで本選の日のステージに出てみないかって誘いを受けた。本選とは別枠でグランプリを取る権利はないけど、プロのミュージシャンに見てもらえるらしい」
「それに駿太が出るの?すごいじゃん!」
手放しで桃香が喜ぶ。
「いや、春斗もだ」
「俺も?って桃香と那津は?」
「今回は二人だけ。それから、バンドの編成は参加者が正式に決まってから発表になるらしい」
地方から出てくるバンドにはメンバーのレベルがちぐはぐなことはよくある。才能のある人にチャンスを与えようとする企画なのかもしれない。
「なんか、腑に落ちねぇ」
春斗は駿太だけが呼ばれたことが気になるようで、参加を明言しなかった。
「チャンスかもよ?出なよ」
桃香は春斗に参加を促した。
「私も桃香と同じ意見だよ。駿太は参加するんでしょ?」
本気の上手な人とバンドが組めるチャンスはそうない。
「俺は参加する。バンドを解散しろって言われたわけじゃないし。視野を広げるチャンスだしな。春斗も出ろよ」
そこまで言うと、駿太は顔を私に向けた。
「そんなことより、さっきの那津の話は、なんだったの?」
あまりにも話が別の方向に展開したので、自分の話を忘れていた。
駿太と春斗はレベルが上だということだ。桃香だって作曲ができるし、望めば音楽の世界で生きていける可能性がある。
私はいつまでも三人に助けられるだけで、ここにいてはいけない。
「駿太と春斗は、プロになりたいならどんなチャンスでも逃したらだめだと思う。私にはその覚悟がない。だから、バンドを抜けさせて」
頭を下げた。
桃香がすぐに反応する。
「まぁ、活動休止中だし、やりたくなったらまたやればいいじゃん。今から抜けるとか抜けないとか言わなくても。那津は思い詰めてるけど、私だって自分自身がプロになれるなんて思ってたわけじゃないし。それに実は私、保育士になりたいんだ」
初耳だった。
桃香はしっかりと夢を持って努力しているんだ。それなのに時間を割いて新曲を作ってくれた。はっきりと言われたわけじゃないけど、あれは私のためだったと思う。
桃香の話は続く。
「私はいつかまた趣味でいいから、みんなで演奏できたら、それでいい」
「俺はこのメンバーでもう少しやりたかったけどな」
春斗が呟いた。
解散とは言わないけれど、私達は別々の道に進んでいく。活動休止を決めた時から、桃香は決めていたんだと思った。
「春斗は受験どうするの?」
桃香が春斗に聞いた。
「俺は、地元のM大に行く。好きなバンドの出身大学だからな」
「そんな理由?呑気ね。受かるの?」
「今から推薦狙う」
「遅刻魔には絶対に無理だから、ちゃんと一般入試を受けなさい」
相変わらずのふたりは仲良くじゃれているので、そっとしておこう。それよりも駿太の進路が気になった。
「駿太はどうするの?」
「俺は音楽はやめないけど、大学には行くつもり。潰しが効くとかじゃなくて、大学に行くことも視野を広げるチャンスだからな」
駿太はちゃんと現実を見つつ、夢を追っている。堅いというか、賢いというか。ちゃんと考えていて偉いと思う。
私もちゃんと自分の生き方と向き合わなきゃいけない。
教室の窓から差し込む夕日の光に、背中を押される気がした。
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