カイさんとトリコさんが固まっている。
リビングの時間が止まる。
「忘れてた」
「私もよ。てっきり明日から毎日歌の練習でもするのかと思ってたわ」
昨日からいろいろありすぎて、私がまだ研修中のアルバイトで、学生だってことを忘れられていた。
「台風がこっちに来るのは最短で3日後。遅ければ1週間か。それまでに歌を覚えて夢魔を追い払う……」
カイさんがノートパソコンを開いて、なにやら調べ始めた。
「那津。俺達は時間が惜しい。明日から1週間を俺たちにもらえないか?」
「1週間、私が学校を休むってことですか?」
「学校と両親には俺から説明する」
「私は構わないですけど」
進路も決定しているし、今まで真面目に通っていたおかげで、1週間休んでもなんとかなるだろう。
「じゃぁ、とりあえずは今から音弥と歌の練習を頼む。明日は俺が送っていくから」
カイさんはそれだけ言うと、音弥さんの方へ行き、何かを小声で話している。
フィルさんと凛は、音弥さんのコルセットを外して、微調整をするために2階へ持っていった。
テキパキと動くみんなを眺めていた。
私の歌が音弥さんの代わりになるのだろうか。バンドで歌っているときは、ただただ楽しければよかった。コンテストの日は、うまく見られたくて、今思うと見栄を張っていたのかもしれない。今回の歌の練習はバンドとは全く違うし、うまく見せようとしたって、きっと見透かされる。いや、違う。たぶんコンテストの時も、中身が伴っていないのにうまく見せようとしたから、見透かされて落とされたんだと思う。今ならわかる。命をかけて歌っている人たちに比べたら、私の歌はからっぽだった。
「音弥さん、歌を教えてください」
深々と頭を下げた。
「那津、悪いな。ありがとう」
私の肩にぽんと手を置いたのは、カイさんだった。
慌てて顔を上げた。
「あとは頼んだ」
カイさんは音弥さんに声をかけると外に出ていった。
「確かに、なっちゃんには負担かけちゃうけど、やってもらうしかないから、一緒に頑張ろう」
「那津、もしもうまく出来なくても抱えこまないようにするのよ。上手く行かないときは、音弥の教え方が下手だったからって思えばいいからね」
トリコさんの言葉に音弥さんが笑って応えた。
「ま、それくらいの図々しさは必要かもな」
「じゃぁ、任せたわよ。私も少し芹沢について調べにいってくるから」
「トリコさん……」
音弥さんが何か言いかけて、言葉を飲み込んだ。
「あ、いや、気をつけて」
「わかってるわよ」
トリコさんは音弥さんと視線を交わし、少し間を置いてから答えた。
目で会話しているようだった。
その後、私は音弥さんと練習を始めることになった。
音弥さんが身動きし辛いため、ダイニングの椅子に座って、パソコンなどをセットした。
私は音弥さんから少し離れてリビング側に立った。
まずは発声の仕方から丁寧に教わる。
夜の闇の中は静かだとはいえ、マイクもない広い空間に声を届けなければいけない。
声量が必要なことは当然で、更に声を響かせなければいけないらしい。元々、音は空気の振動で伝わるが、夢魔に伝わる声は更に美しい振動が必要になるらしい。
「なっちゃんの声は綺麗だよ。柔らかな高音と穏やかな低音が絶妙なバランスだと思う」
そんなこと言われたことなかった。でも、バンドのメンバーはみんな、私の声を褒めてくれていた。今はみんなとは違う道だけど、もっと上手に歌えるようになったら聴いてもらえるだろうか。
音弥さんが笑顔で、パソコンを操作すると、柚月さんの歌声が流れてきた。
「この歌を練習してもらうよ。でも、柚月の歌を真似しないで、なっちゃんはなっちゃんらしく歌って」
「はい」
素直に返事をしたものの意外と厳しいことを言うなと思った。
柚月さんの歌声が強くて張りのある美しい声だったことを思い出した。そういえば、私は柚月さん以外の人の歌声を聴いたことがない気がする。
きっと音弥さんも、カイさんも綺麗な声なのだろう。
私は、柚月さんの歌を聴いて、繰り返し歌った。時々、音弥さんが小声で歌いながら教えてくれた。
音弥さんの囁くような歌声は、優しかった。
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