ドアを開けると音弥さんが立っていた。一瞬、カイさんが来てくれたのかと思ってしまった。
「トリコさんに聞いたら夕食までまだ時間あるって言ってたから、ちょっと散歩しない?」
音弥さんに誘われて、外に出た。
研究所は山の上の拓けた場所にある。研究所とセカンドハウスの前にある駐車場の先は、芝生が広場のように広がり、大きな木が点在している。私は芝生の先に何があるのかは、見たことがなかった。
芝生の庭は脇に狭い通路があり先まで行くと、景色が見渡せた。眼下も山の緑が広がり、あまり車の通っていない道が遠くに見える。空を見上げるとオレンジと薄い紫のグラデーションが広がっている。陽が落ちる僅かな時間にしか見られない贅沢な色だ。
立ち止まって音弥さんの顔を見ると、穏やかに微笑んでくれた。初めて会ったときは、チャラいとしか思わなかった笑顔に今はいろんな想いがあることを知っている。でも、こんな笑顔をいろんな人に振り撒いていて大丈夫なのだろうか。
「音弥さんって、女性に勘違いされませんか?」
思わず言葉が出てしまった。
「なにが?」
そうか、無意識にやってるから本人は気づいてないパターンか。
「いえ、なんでもありません」
「嘘。言いたいことはわかるよ。俺は誰にでも優しいからね。でも、勘違いされるのは俺みたいな奴じゃないよ。クールで無表情の奴がたまに見せる笑顔の方が勘違いの破壊力はあるんじゃない?」
音弥さんは、笑いながら言った。
誰って言わなくてもわかってしまう。
「ギャップですね」
「そう。カイとか、トリコさんの方が危険なタイプじゃん。トリコさん男バージョンはギャップありすぎだし。俺よりモテるよ、あいつらは」
確かに。説得力ありすぎる。でも、カイさんがモテるのは複雑でもある。カイさんはなんで、私を選んでくれたのだろうか。
少し涼しくなった風が頬を撫でた。
「そんなことより、なっちゃんに言いたいことがあったんだ」
音弥さんは、落ちていく夕陽を真っ直ぐに見て話し始めた。
「本人が意識してるかしていないかは別として、なっちゃんと会ってからカイの声がすごく良くなった。カイにとって、なっちゃんは大切な人だよ。だから自信持って、本社で何があっても負けないように」
本社では、研究所で採用になる社員を妬ましく思う人が未だにいるのだろうか。過去に柚月さんが嫌がらせにあったから、音弥さんは私のことを心配してくれているんだろう。
「大丈夫です。カイさんや音弥さんの助けがなくても、たった1ヶ月なのでなんとかなります」
「ありがとう。けど、なんかあったらちゃんと頼るようにしなよ」
音弥さんが私の肩に触れた。
こういう行動が女性を勘違いさせるのではないだろうか。顔が赤くなってしまう。
「あと、もうひとつ。俺、彼女とちゃんとお別れしてきたよ。なっちゃんのおかげで、もしも彼女が黒い夢魔になっていたとしたら、俺が前を向いていないことが原因じゃないかって気づけたから」
音弥さんの彼女──亡くなった彼女のことだ。音弥さんはいつも明るくて表面は軽そうに見せているけど、本当は愛情深い人だ。きっと研究所に来なければ知らなかっただろう。
「私はなにもしてません。でも、音弥さんが辛くなったときには私も助けられるようになります」
「俺は嬉しいけど、それはカイが妬くんじゃない?」
「そんなこと…」
そんなことはないと思う。カイさんは音弥さんを信頼しているから。
「誰が妬くって?」
背後からカイさんが現れた。
「カイのことだよ。俺がなっちゃんとデートしてたから、すでに妬いてるでしょ」
「くだらない。トリコさんに頼まれて音弥を呼びにきただけだ」
「まぁいいや、邪魔者は去るからふたりはゆっくり戻っておいで」
音弥さんは私達に背を向けると、研究所の方へ歩いていった。
「全く、あいつは…」
私の隣りに立ったカイさんの存在感に、少し緊張する。好きなのに、慣れない。音弥さんが隣りにいるときは平気なのに。
「でも、確かに妬けるな。この空が綺麗すぎて」
カイさんがそう言って空を見上げた。
さっきよりもオレンジ色が減って、群青色が顔を出した空は太陽をゆっくりと隠していく。人の悩みが夢魔となって現れる時間が近づいている。夕食後は、カイさんの仕事の時間だ。今日は今しか一緒にいられない。
「疲れた?」
カイさんの質問に首を横に振った。
「そんなことないです」
「そうか。俺、実際のところ…音弥みたいにうまくやれないから、疲れてるとか、これが嫌だとかははっきり言ってほしい」
私がカイさんに緊張しちゃうから、疲れてると思われたんだ。でも、私がカイさんに言いたいことってそんなマイナスのことじゃない。今はまだ仕事中ではないから、言ってもいいのか。
カイさんの顔を見た。
「カイさんに会うのが久しぶりで、緊張してただけです」
好きなのかなって意識すると、どう振る舞ったらいいのか正解がわからなくなる。
「そんなに構えなくていいよ。就職したって、俺は俺だし、那津は那津でなにも変わらない。立場上、気をつけることはあるけど」
「私も私情は挟まないように、気をつけます」
気をつけるけど、本社でのカイさんってどんな感じだろう。
「いや、那津はそんなに難しく考えなくていい。今のままで大丈夫。こっちの問題だ。……久しぶりに会ったのにここでは、こんな話ばかりだな。ごめん」
「謝らないでください。私はここが好きだし、カイさんのことも好きなので」
勇気を振り絞って好きだと言ってみた。
瞬間、カイさんの笑顔が溶けた。こっちが恥ずかしくなるくらいの柔らかい表情だった。
「ありがとう。そろそろ戻るか」
カイさんはそう言うと、私と手を繋いだ。
「これくらい許されるだろ。行くぞ」
「これくらい……ってカイさんはそうかもしれませんけど、私はドキドキするんで──」
「ドキドキついでだ」
カイさんに手を引っ張られて、そのまま私の顔はカイさんの胸の中へ。抱きしめられた。カイさんの香りがする。
「これから、大変なことはたくさんあると思う。一緒に乗り越えてほしい。また那津の歌声が聴けるのを楽しみにしてる」
「私もカイさんの歌、楽しみです」
ふたりで顔を合わせた。
「カイー、那津ー!!もうすぐご飯だから戻ってきなさぁい!」
遠くでトリコさんの声がする。
新しい生活がスタートする。
夜の闇に迷う夢魔を浄化し、歌声だけで世界を救う。耳をすませば、今宵もきっとカイさんの美しい声が闇夜を照らす光のように響くことだろう。その傍らに、いつも私がいられるようにと、もうほとんど沈んだ夕陽が残していった紫色の空を見上げた。
「さぁ、今度こそ本当に戻るぞ」
「はい」
カイさんと私は、ふたり並んで研究所の中へと戻った。
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