私達は少しだけ車を下りて休憩をして、また車に戻ってきた。
やっぱり、きちんと伝えてよかった。カイさんのことは、まだよくわからないけど、空気が優しくなった気がする。
カイさんが運転席に座ると、缶コーヒーを手渡してくれた。
「まだここから一時間以上かかるから、よかったら」
「あ、ありがとうございます」
缶コーヒーを受け取ろうとして、指が触れた。男の人の手は、大きくて少し関節が目立つ。
意識した瞬間、さっきカイさんに引き寄せられたときの感触が蘇ってきた。
缶コーヒーが手から滑り落ちる。
「ご、ごめんなさい」
なにやってるんだろう、私。
「大丈夫?」
カイさんが缶コーヒーを拾ってくれた。
暗くてよかった。
たぶん顔が赤くなっていると思う。
今まで私の周りにいた男性と言えば、春斗と駿太くらいで、バンドの仲間だったから、性別なんて気にしたこともなかった。
私にとってカイさんはこの先、上司になるかもしれない人で、学校の先生みたいに意識しなくていい間柄だ。
それに、カイさんは海外の学校に通っていた人だから、あれくらいは普通だろう。
まさか、ここにきて、男性との経験値不足が足を引っ張ることになるとは思ってもみなかった。
柚月さんか音弥さんに助けて欲しい……ん?でも音弥さんは男性なのにあまり緊張しなかった気がする。
あぁそっか。音弥さんは、少しだけ春斗に似ている。明るくて、コミュニケーション能力が高くて、でも、実はしっかりしている。春斗が大人になったら、音弥さんみたいに──は、ならないな。ちょっと音弥さんは軽い気がするし。
「さっきのことは、もう気にしなくていい」
カイさんが急に言葉を発したので、思いっきり見てしまった。
さっきってなに?抱き寄せたこと?気にするなって、なんなの?頭の中がパニック状態だ。
「俺が怒ったこと。那津だけが悪いわけじゃないから」
そのことか。さっき謝ってくれたのに、まだ気にしてくれてる。なんでだろうと思ったら、私、自分の恥ずかしさのあまり、さっきから黙ってずっと考えごとをしてた。
落ち込んでるって思って、慰めてくれたのかもしれない。
「あ、いえ。ごめんなさい。ちょっと考えごとをしてて。あ、違うんです。カイさんに叱られたから考えていたわけじゃなくて」
しどろもどろになる。自分でも何を言っているかわからない状況って、こういうことなんだ。
「それなら、いいけど」
「あの、でも私は研究所に就職できるんですか?」
カイさんの行動のせいで忘れかけていたけど、実は大失態のあと、気になっていたのは就職のことだった。
「なんで?それは那津が、見学してから決めればいいと言ったはずだよ」
「だって、私はカイさんの指示に従わなかったから」
「それは関係ない。就職に関しては、無理やり俺たちが頼んだわけだから、急に手のひらを返したりはしないよ。もう信用してもらえない?」
こちらを見たカイさんは真剣な表情だった。
もう信用してもらえないかもしれないと思ったのは私の方。
「そんなことないです」
「よかった。じゃあ俺たちは、那津の決断に従うよ」
そう言うとカイさんは、車のエンジンをかけて、車を発進させた。
私は見学なんてしなくても、就職したいと思っている。
「でも那津は夢魔のこと、怖くないの?自分が戦うことになるかもしれないのに」
言われてみれば、その通りだ。でも、不思議と怖いというより、助けたいと思った。
「最初に見たときは驚きました。不安だったし、怖かったと思いますけど、なんかだんだん怖いというより、気になってきたんです。どうしたら夢魔も夢主も楽になれるのかなって。もしかしたら夢魔の目を見たからかもしれません」
「目を認識したってことか。なるほど。那津は、あの虹色の夢魔からなにか感じた?特徴があった?」
そういえば、夢魔が車に向かってきた時に、低音が聞こえた。
「気のせいかもしれませんけど、風の中に、低い音が聞こえました。リズムを刻むような音だったので、違和感があって覚えています」
「やはりそうか」
カイさんは何かに気づいているようだった。
「カイさんもあの音を聞いたんですか?」
「あぁ、リズム楽器の音だと思ったんだ。だから吹奏楽部を見に行った。吹奏楽部の子なら、リズム楽器を演奏できるだろうと思って。でも、会った子たちからは夢魔と同じような負の感情が感じられなかった」
カイさんの、学校訪問の理由がわかった。だいたいの目星をつけて、夢主を探していたのだ。
私があの音を聞いたのは一瞬だった。でも、ドラムの音ではなかったような──。
「あ!!もしかして、ベース、ベースの音ですか?」
「なんだ、わかっていたのか」
カイさんは私を試すために、リズム楽器の音なんてややこしい言い方をしたのか。最初からベースって言ってくれればいいのに。
「一瞬しか聞いていないので、わかっていたわけではなくて、カイさんの話でわかりました」
「そうか。もしかしたらさっき追い払った夢魔はもう一度現れるかもしれない。出現した時間が早かったから、また力を蓄えて襲いに来るかもしれない」
夢魔は、自然災害を起こすだけではないのか。そもそも、自然災害を起こす目的ってなんだろう。しかも、さっきは明らかにカイさんの車を追ってきていた。
「カイさんを襲う目的ってなんなんですか?」
「夢魔は、邪魔なものは排除しようとするからな。自然災害の目的も自暴自棄になって世界を壊すことが目的ではないかと言われているが……わからない」
確かに、夢魔にとって研究所の人達は邪魔でしかないだろうけど。
カイさんが、ちらりとこちらを見た。
「今回の夢魔は、俺に対して特別な感情を持っているだけで、通常は直接襲いに来る夢魔は滅多にいないから、安心していい」
夢魔が特別な感情を抱くということは、夢主の負の感情の矛先が、カイさんということになる気がする。
「カイさんは、大丈夫なんですか?」
私には、カイさんを助ける力はない。早く、力になりたい。
「那津、ありがとう。でも、大丈夫だよ」
カイさんの発した言葉は、優しい声だった。
ベルガモットとラベンダーの、ほのかな香りに包まれて、ふたりだけのドライブはもうすぐ終わる。
なんだかもう少しだけ車に乗っていたい気分になっていたから、不思議だ。
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