「私が連れてきた」
現れたのは凛だった。凛は研究所の職員だが、研究所で使う機器の開発やメンテナスをするフィルさんの弟子なので、私達とは違う仕事をしている。
「何があったの?ちょっと、ちゃんと説明しなさい!」
通信機から柚月さんの声が響いている。
「俺が凛に頼んで、夜中のうちに、音弥を連れてきてもらった」
「どうやって?凛はまだ車の運転はできないわ」
言われて気付いた。凛は私と同じ年齢だ。
「私が運転できなくても、タクシーがあるだろ?柚月は、また狙われる可能性もあるし、家にいたほうがいい。それから、カイが、隠しててもわかるから寿太郎に怪我を見てもらうようにって言ってたぞ」
「私の怪我なんて大したことないし、音弥だって怪我をしてるのよ?」
柚月さんは混乱しているようだ。
何か言おうとしたカイさんに向けて、凜が手のひらを大きく開いて止めた。
「音弥は戦うために来たわけじゃない。那津の歌の指導だ。那津の声の素質を見抜いたのは柚月だろ?それならわかるはずでしょ?音弥が歌えないなら、那津に頼るしかないって。カイだって、音弥をここに呼ぶことは迷ってた。けど、多くのなんにも知らない人たちの命を危険に晒せない」
少し間があって、柚月さんが「わかったわ」と静かに答えた。
「柚月。とにかく足の怪我を治してくれ。待ってる」
カイさんの声に、もう一度柚月さんが「わかった」と静かに答えた。
あんな混乱の中、カイさんは柚月さんの怪我にも気づいていた。私は自分のことで精一杯だったのに。
「柚月は寿太郎さんの病院でちゃんと診てもらうこと。私達は打ち合わせを始めるけど、ちゃんと報告はするから、安心なさい。じゃぁね」
トリコさんが通信を切った。
研究所に揃ったみんなが顔を見合わせた。やることはひとつ。台風を消滅させること。
その時だ。ドンドンドンドン。重たい音が廊下から聞こえた。凜が内側からリビングのドアを開けた。
研究所に必要な道具を作ったり管理している発明家のフィルさんだった。
「ふぅー。間に合ったカナ。カイくん、できたよ」
フィルさんが手に持っていた物をカイさんに渡した。
「何それ?」
トリコさんが覗き込む。
「コレは、音弥くんの肋骨を固定して痛みを軽減する動きやすいコルセットだよ。カイくんからの依頼とはいえ、あまり医療用具なんて作ったことがないから、てこずってしまったよ。アハハハ」
フィルさんは豪快に笑った。
カイさんは、音弥さんに無理をさせてしまうから、なるべく負担を軽減させたいと思ったのか。カイさんって、本当は優しい人なんだな。いや、待って。昨日の今日だよね……しかもフィルさんは昨日は家に帰ってたわけだから、夜中に寝ているところを起こされた挙げ句、研究所まで呼び戻されてから今まで休みなく作っていたのだろう。
カイさんはフィルさんに鬼のような要求をしたんじゃないのか……。で、でもみんな笑ってるし、考えるのはやめようかな……。
音弥さんがダイニングの椅子に座らせられ、コルセットの試着をしている。ベストのように着てから、肩や胸、ウエストなどを付属のバンドで固定している。
フィルさんが調整しながら、説明を始めた。凛は邪魔にならないようにフィルさんの補助をしている。
まだぴったり合わせるには調整が必要らしく、時間がかかりそうだ。
「音弥のこと、心配そうね」
トリコさんに声をかけられて、自分がどんな顔で音弥さんを見ていたのだろうと不安になる。
「もちろん心配です。でも、研究所のみんなは、支え合っていていいなと思います」
誰かに必要とされて、誰かのために力になろうとして、支え合って。正直、羨ましく思える。芹沢のこと、好きになれないって思っていたけど、もしかしたら、私と同じような気持ちを抱えていたのかもしれない。それが少し拗れただけで。
「人数が少ないからね。一生懸命なのよ。それに那津にもやってもらわなきゃいけないことがあるのよ」
「あぁ、そうだな。那津、音弥の代わりに歌えるように練習をしてほしい。あとは音弥に頼んであるから聞いて」
音弥さんの代わりに……そういえば、音弥さんの歌声をしっかりと聞いたことがないような気がする。音弥さんの声は、流行りのミュージシャンのような軽く爽やかなイメージだ。
「カイはどうするの?」
「柚月の怪我の様子を見てくる。動けそうなら本社に行ってもらう」
「本社に?あそこは柚月にとっては鬼門よ」
トリコさんとカイさんが会話を始めた。
怪我をした柚月さんにわざわざ本社に行ってもらわなければならないほど重要なことがなんなのか知りたくなってしまった。
狙われた柚月さんを本社に送り込むということは、本社の方がここよりも安全だから避難してもらうのか。いや、そもそも柚月さんは本社で働いていたのだから、私が知らないだけで、今でも本社へ行くのはよくあることなのかも。でも、さっきトリコさんが本社は柚月さんにとって鬼門と言ったのは気になる。
「もちろん、柚月が嫌ならば無理に行かせたりはしない──しかし、その場合は」
「私に、行けって言うんじゃないでしょうね?行ってもいいけど、高くつくわよ?」
カイさんとトリコさんの会話が耳を通過していく。本社に行くのは誰でもいいみたいだ。ということは、柚月さんを本社で匿うわけではないらしい。
外の風は相変わらず、コンコンと窓を叩いては通り過ぎていく。
今回、芹沢が現れた理由が、柚月さんが新人の私と二人きりだったからだってカイさんが言ってたし、今度は怪我をした音弥さんと二人きりになったときに音弥さんが襲われるかもしれない。
回避できるだけの力をつけなきゃ……。
ぐるぐると考えても仕方のない言葉が頭の中を支配していく。やはり今回の騒動は私のせいかもしれないと。
手に持った通信機を見つめた。
でも芹沢はなぜ、研究所に私と柚月さんしかいないって知っていたんだろう。まさか、ずっと見張っていたわけではないだろうし。
ふと、ひとつの可能性が頭に浮かんだ。
もしも芹沢に研究所の情報が筒抜けだったとしたら、攻撃するのは容易だ。
「カイさん、もしかして芹沢は、いつ攻撃すればいいのか知っていたんじゃないですか?」
私の声に、カイさんとトリコさんが振り向いた。
「那津はどうしてそう思ったんだ?」
「さっきカイさんに、私と柚月さんが二人きりのときを狙われたって言われたので、計画的に攻撃してきたのかと思ったんです」
「トリコさんは、どう思う?」
「新月は確かに、用事があれば外出して研究所には人がいないこともあったわ。今回は那津がいたけど……そんなに珍しいことでもないと思うわよ。だから芹沢は新月に攻撃することを予め決めていたんじゃないかしら」
「そうだな。そして、俺達がいないのを確認して攻撃した……果たしてそうだろうか、と、那津は言いたいんだろ?」
カイさんは、鋭い視線を窓へ向けた。
「どういうことよ。芹沢が始めから研究所に人がいなかったことを知っていたとでもいうの?盗撮や盗聴でもない限り無理よ。カイと音弥が本社に行くのも急に決まったことだし」
「単純に、俺と音弥の二人が研究所からいなくなる日を芹沢に報告する人間がいればいい。そうだろ?」
カイさんに同意を求められたので、うなずいた。
「まさか、本社に芹沢側の人間がいるっていうの?それを柚月に探らせようとしたの?」
トリコさんの表情が硬くなった。
「あぁ、俺も少しは怪しいと思っていたからな」
「それはだめだわ。私が行く。いい?なんとなくわかったわ。芹沢に協力した理由はカイ、あんたよ。研究所に来る前から、あんたが柚月を気にかけていたせいで、柚月は本社の職員の嫉妬の対象になったのよ。だから、柚月がいなくなればいいと思う連中が協力したに決まってるわ。それに──」
トリコさんが、カイさんと私を交互に見てから言葉を続けた。
「那津のことだって、連中はよく思っていないわ。本社に一度も所属せずに、いきなり研究所に入るんだもの場合によっては柚月よりも嫉妬されてるわよ」
そうか。カイさんはモテるって言ってたし、カイさんに近づきたい女性が、私はともかく柚月さんに嫉妬するのは頷ける。こういう場合は、柚月さんが結婚しているとか、カイさんに好意を抱いていないとかは関係ない。
ちらりとカイさんに視線を送ったが、カイさんは理解できないという顔だ。
「俺は、全ての職員と同じように接している。個人的な話をしてきた人間には、きちんと対応してきたつもりだが?それに柚月を気にかけたのは、柚月の声の素質に気づいたからだ。それ以外の感情はない」
「カイが来るもの拒まずみたいな態度をとってたからよ。勘違いした子もいるわよ」
「いや、でも、職員とは男女の関係になることは有り得ないと伝えて、断ったはずだ。来るもの拒まずと思われたのなら悪いが、受け入れたつもりはない」
ということは、つまり、だ。私に、気のある素振りを見せたことも、駿太を牽制するためと私を研究所で働かせるための演技だったんだ。
わかっていたつもりだったけど、はっきりと言葉にされると傷つく。
心のどこかで私はカイさんの言葉に期待していたのかもしれない。
カイさんに恋してたわけじゃないけど、カイさんのこともっと知りたいと思っていたのは事実だから。
「その、今更だけど、ちゃんとフォロー入れながら断わったわよね?」
トリコさんの質問に、答えないカイさん。
「まさかあんた、フォローしてないんじゃ……」
「フォローって?付き合えない事実に言い訳を重ねることに意味なんてあるの?」
私の気持ちなんて知らないふたりの会話は流れていく。
「あんたはそれでよくても、向こうはそうはいかないわよ。乙女心をなんだと思ってるの?あー、ちょっと頭痛くなってきたわ」
トリコさんがリビングのソファーに座り、頭を抱えている。
カイさんって、本当に恋愛に対してはドライだなと思う。
カイさんも向かいのソファーに座った。なにも気にしていないようだ。
ダイニングでは、音弥さんのコルセットの試着が終わっていた。
台風がこの地にたどり着くまでに、私が歌を歌えるようになり、本社で芹沢と繋がっている人間を探し出さなければいけない。
とにかく時間がない。
慌ただしかったので、大切なことを忘れていた。
「カイさん。私、月曜から学校なんですけど」
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