――どうにかしなければ。
混濁する意識の中、ゼルは懸命に解決方法を考えていた。世界を支配する悪魔の一人、それが目の前にいる。ゼルの魔眼は未熟なものではあるが、それでもある程度の真実を見る能力は備わっている。
「助けて」
叫びが聞こえる。嘆きが聞こえる。彼の精神の奥深くに、眠るのは憎悪ではない。胸を引き裂くような激しい痛みだ。狂気という分厚い殻で自分を守ってはいるが、それでも隠しきれない弱さがあるのだ。
「何か抱えているんでしょう? ねぇ、教えて。貴方は何を恐れているの?」
「恐れている……? 不快ですね。まさか、まだ意識があるとは。もう少し負荷をかけるべきか」
「あ……ぐっ……」
もう少し。あともう少しなのに。氷よりも冷たい虚無が阻む。
――血塗れの、青年。コマ送りの映像の中、悪魔によく似た誰かが泣いている。
不鮮明で、途切れ途切れで。パズルのピースのようにはまりそうなのに、はまらない。手がかりに手を伸ばした、その瞬間。悪魔の笑みが、一段と深くなる。
「私の精神に干渉しようなど、甘いんですよ」
「ああっ……ああああぁぁ!!」
痛い。苦しい。嫌だ。電流を体内に流されたかのような鋭い衝撃に、ゼルは悶える。一瞬意識が飛び、気づけば悪魔に背を踏まれていた。
「もう、いいでしょう? 力の差は分かったはず……これ以上、私の手を煩わせないでください。私は早くこの街を焼いて、主に披露しなければ。復讐はこれからだと」
散々に蹴りつけられ、呼吸が苦しい。ひゅー、ひゅー、と情けなく呻くゼルを、悪魔は気にせずに虐め続ける。
「……ま、って」
行かないで。行ってしまったら、きっと貴方は戻れないから。
「お願い、待って」
だが、悪魔はその手を振りほどく。助けなど、自分に得る資格はない。そう、突き放すようにして。
「待って!!」
「……」
悪魔の足が、ピタリと止まる。ほっとしたのもつかの間。悪魔の双眸が細められ、蛇の瞳のように鋭くなる。
「今、ここで死にたいなら遠慮なく殺してあげます」
「い、嫌……」
だが、悪魔の怒りは収まらない。
「私の過去はどうでしたか? 血と、暴力ばかりが溢れていたでしょう? だから、見るなと言ったのに。貴方は見てしまった。その目で私の事を見てしまった」
首を絞める力はより強くなり、骨が砕けそうなほど食い込んでいる。だが、それ以上の害は加えようとしない。じっくりといたぶるように悪魔はゼルを焦らす。
「ふふっ、脅しはしましたが殺しはしませんよ? 私は、殺すことなんて甘い罰だと思っていますから。限界まで追い詰めて、苦痛に歪んだその顔を愛したいんです」
「狂ってる……」
「えぇ、そうですよ。やっと私の事を化け物だと認めてくれた……救えないと分かってくれた。ようやく、希望を捨ててくれた」
耳元で囁かれる、悪魔の蠱惑的な声。狂気すらも受け入れて、物にして。頬を撫でる手は血に塗れ、鉄の臭いが酷くこびりつく。
「嬉しいです。希望なんて持っていても、つまらない。どうせ叶わない夢を、いつまでも持ち続けるなんて苦しいだけ。それぐらいなら、快楽に浸かって自由になった方がいい……そうは思いませんか?」
「貴方には、叶わなかった夢がある。そうよね」
一瞬、酷く悪魔の顔が歪んだのを、ゼルは見逃さなかった。何か、裏がある。
「それが貴方を狂わせてしまったの? 貴方が狂ったから、その夢を手放さなければならなかったの?」
「…………」
長い沈黙が、場を支配する。その沈黙を引き裂いたのは、ゼルでも悪魔でもなかった。
轟音と共に、炎に破れた建物達が一気に半身を落としてくる。焼けた瓦礫はさらなる爆発を誘い、勢いを強めていく。
悪魔は素早くゼルの首を掴んでいた手を放し、踵を返して歩き始める。
「待って!!」
ゼルの絶叫を、悪魔は無視する。口を僅かに動かし、何かを話しているようではあるが、よく聞こえない。
影のように、ふっと消える後ろ姿を見送り、ゼルは満身創痍のアルトの元へと駆け寄る。脈はあるが、熱気も相まってかなり苦しそうだ。仲間の中で、生存者はいない。アルトの身体の状態は酷いものだ。全身から絶えることなく血が流れ出し、顔は血の気が引いている。
「聞こえますか、アルトさん!!」
「あ、あぁ……あの、悪魔は……逃げたか?」
「いえ、突然姿を消してしまったんです。でも、私たちの逃げ道もない状態で……」
「大丈夫だ、これぐらいの火なら……ッ」
「無理しないでください! ――プルウィウス・アルクス!」
とっさに治癒術式を詠唱し、回復に専念する。虹色の光がアルトを包み込むが、完全な治癒には時間がかかりそうだ。しかし、抱きかかえて走るような体力も、ゼルには残されていない。
「くそ……大分燃えたな……」
「これが、伝承の……」
「あぁ、でもあの悪魔は死んだわけじゃない。まだ、燃やし続けるはずだ。このセーツェン全体を覆い尽くしてしまうほど」
これ以上街を燃やせば、大事な皆が死んでしまう。それは、避けなければならない。どうすればいいというのか。
「困っているようだな、人間」
「……え?」
目の前に悠然と立つのは、長剣を携えた一人の男。しかし、周りは全て燃えているというのに、一体どこからこの男はやってきたのか。
「え、ええ。さっき、悪魔に襲われて……それで、逃げ道もなくて困っているんです。あの、貴方はどこからここに辿り着いたんですか?」
ゼルの問いに、男は僅かに笑みを浮かべる。何を言っているのか、と見下すように。
「私は、貴様らが嫌う大災禍の第一位――ロゼ・ヴァレンティーンだが。私に頼み事をする気か?」
「何故、お前が……」
「ふふっ、別に人間に手を貸すわけではない。私が困るから、様子を見に来ただけだ」
金色の双眸に、淡く光る白金の髪。腰に差された長剣は、無言の圧を放っている。使い込まれているのだろう。細かな傷が無数に奔っている。絵に描かれるような、翼や角はない。柔らかな物腰の裏に秘めた殺意があるのをゼルは感じた。
「あぁ、これは私の真の姿ではない。気にするな」
視線に気づいたロゼが、手早く訂正する。
「もう一度聞こう……お前はどうして、セーツェンに来たんだ」
「奴が全てを奪い尽くしてしまえば、私の座が危うい。それだけの話だが」
「じゃあ、貴方が彼を説得してよ! もう殺さないで、って……」
しかし、ロゼは黙って首を横に振る。
「どうして! だって、貴方も困るんでしょう?」
「ああ。だが、手は貸さない。私は人間の助けにはならない。あくまでも、己の利益のために動くだけだ」
「どいつもこいつも自分の事しか考えていない……お前が、あの悪魔を創ったのか」
「そうだ。私が、彼を創った。彼の狂気は、私好みの物だったから……特別に可愛がってやったよ。彼の実力は正直足りないものがあったが、努力は認めたつもりだ」
「巫山戯るな!! お前のせいで……お前のせいで一体どれだけの犠牲が出たか……!」
アルトの怒声に、ロゼの目がすっと細められる。妖しい光を纏ったかと思えば、糸が切れた人形のように、アルトは地面に倒れ込んだ。
「ふふっ、力も持たないのに口だけは煩いな。そういう所が愛らしくもあるが」
「アルトさん……!!」
「泣くな、少女よ。私が使える術の中でも簡単なものだ。放っておけば直に治る」
ロゼの手がアルトの頬に触れると、たちまち眩い光が視界を覆う。何度かまばたきをして目を開けると、ロゼの手は鮮血に濡れていた。
「貴方、何をしたの」
「血を少し奪った。魔力には溢れているが、好みではない……といったところか。くくっ、そこまで恐れずとも、お前の血は口にしない。子供の血など、喰っても足しにはならないからな」
ロゼは、ふっと息を吐く。すると、周囲の火が一瞬にして消えた。幻術の類いかとゼルは思ったが、熱さも感じない。
「火が……消えた」
「あぁ、私にとってはこの程度、玩具のようなものだ」
「玩具のようなって……私たちは焼けたら死ぬんだから」
「ふっ、そうだな。彼の能力が、傲慢の悪魔である私を上回ることはあり得ない。私より下級の者たちは、第一位以上の力を持ってはいけないという決まりがあるのだ。それに反するならば、容赦はしない。だが、先ほども言ったように、貴様らの計画に参加はしない。あくまで、私は私のために動くのみだ」
ロゼの指がパキン、と鳴らされると、火が次々に消えていく。街を救うつもりは彼には無いようだが、ゼルは心の中で密かに感謝をしていた。ロゼが来なければ、どうなっていたか分からない。
「貴方に、負けるわけにはいかない」
「せいぜい努力することだ。思い通りには、ならないと思うがな」
王者の余裕を感じさせる足取りで、ロゼは悪魔が消えた方へ向かう。ロゼも悪魔と同じように、影に溶けるようにして姿を消してしまった。
残されたゼルは、倒れるアルトを見つめながら思う。自分は、魔術師でも短剣使いでもない。ただの占い師だ。
でも、自分だけじっとしているのも嫌だった。友人や知り合いが戦っているのに、自分だけ逃げるのは卑怯だ。
「私も、早く行かないと」
ポケットから水晶玉を取り出し、怯える心を勇気づけるように強く握りしめる。アルトが目覚めたら、出発しよう――そう思いながら。
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