暗闇に包まれた箱の中。
スィエルと対峙した場所とはまた別の、新たな箱の中に、ロゼは一人籠もっていた。
箱の中には妖しい香りを放つ紫色の煙が漂っているが、それを吐き出す当本人は気に留めない。ただ、ぼんやりと考え事をするには、少し酔うぐらいが丁度いいのだ。
……少し酔う、にはいささか煙の濃度は高いが。
正直、人間にここまで見透かされたのは初めてだと言っても過言ではない。長らく人の世を眺め、傍観に浸り続けていたのだから、まずそもそも人間と接触すること自体稀なのだが。
人を主として持っていた事は、たったの一度だけだ。それからは、誰とも契約を交わしていない。大災禍とは、魔力や監視目的で契約を結びはするが、生身の人間との契約は、あれから一度もしていない。
忘れられない、ただ一人の主。
彼女の名は、パンドラ・ヴァレンティーン。
ロゼに名を与え、生きる意味を与えた人間だ。
◆ □ ◆
ロゼに、生まれた頃の記憶はない。あるのは、パンドラとの記憶と――ごく僅かに残る、不快な記憶だけ。それ以外は、自分の“能力”のために全て使ってしまった。
「ねぇ、貴方……名前は何というの?」
彼女との、最初の出会い。
その時は、名前とは何なのかすら分からなかった。
後々、彼女に聞いた話によれば、名前は人が相手を呼ぶときに使うものだという。その人にとって、最も大事なものらしい、と。
だから、彼女は□□に名前をつけた。手にした赤い薔薇を見て、「真っ白な貴方にはこの薄紅が似合うわ」と言って。
ロゼ、とそう呼んだ。
だから自然に、ロゼも自分のことをそう呼ぶことにした。最初のうちは意味はよく分からなかったが、花の色であることは、何となく理解していった。
ある日、彼女は小さな箱を抱えていつもの木の下にやってきた。どうやら、祖母という存在から貰ったらしい。プレゼント、と言っていた。
「これ、貴方にあげるわ」
「……え」
「ふふ、驚いた顔ね。危険なものじゃないわ。開けてみて!」
パンドラに言われた通り、箱を開けると、小さな金属の板が幾つか。これは何だろう、とロゼが訝しんでいると、彼女は、レバーを引いてみせた。すると。
「……綺麗な音だ」
小さな箱からは、美しく澄んだ音がぽろぽろと溢れ出てくる。まるで、宝箱のようなそれを、彼女はオルゴール、と呼んでいた。
そのオルゴールは、暇つぶしにとても良かった。
響きは衰えることなく、ロゼは何度も何度も箱を開け、そのたびに音を楽しんだ。
「気に入ったのね、ロゼ」
「あぁ、いつも違った音が流れてくる。不思議な箱だ」
「そうなの。オルゴールは、普通同じ曲しか流さないらしいのだけど……これはちょっと特別みたいなの。だから飽きずに何度でも聞けるわ! 凄いでしょう?」
そう、誇らしげに語る少女は、とても朗らかで。
そんな穏やかな日々が夢のように続いた。
《あの時》までは。
「私は……」
ロゼは、手にした箱の中から、真紅の結晶を取り出す。稀に、彼女のことを思い出すとき、酷く錯乱状態に陥ることがあるのだ。それを止めるために、普段眠らないロゼは、一時己の意識の歯車を止める。
意識の中では、逢える。
綺麗なままの、彼女に。
目を覚ますと、そこは虹色の世界だった。色とりどりの花が揺れ、中央には、彼女と過ごした一本の木が大きく根を張り、いつでも会えるようになっている。
その中で、一際存在感を放つのは、無数に置かれた箱たちだ。そして、箱に囲まれた一人の少女は、ロゼの姿を見るとすぐに駆け寄ってきた。
「ふふっ、ロゼ。また来てくれたのね」
「……あぁ」
これは、全て幻の世界。大災禍達に施しているような、一時の甘い夢。だが、悪魔は欲望に逆らえない。
逢いたいと思えば、それに足るだけの犠牲を奪い取る。ここは数多の血を使い、作られた夢の世界だ。
「遊びましょう。私、退屈してたの!」
そう言って、彼女は箱を取り出す。
元々、彼女の周りには、いつも色んな箱があった。学校という所に行けなかった彼女は、箱に魔力を込めることが日々の仕事だった……らしい。
「それ!」
パンドラは、箱を宙に放り投げる。
すると、様々な色の宝石が光り、ポンポンと軽やかな音を立てて、花火のように空を彩る。
「ふふっ、ロゼもやってみましょう! きっと楽しいわ」
「……分かった」
パンドラは満面の笑みを浮かべて、箱から宝石を掴み取る。青色。黄色。緑色……色とりどりの宝石。金色や銀色の宝石もあるなかで、なぜか自分がいつも手にしている真紅の宝石は、そこにない。
色んな色があるのに、赤だけないのだ。それが、今の自分を示しているようで、ロゼは少しだけ目を伏せる。
ぽん、と放り投げれば、宝石は輝く。けれど、そもそも自分は輝く資格すらなく堕ちてしまった。元々、ないものを輝かせる事はできない。
「どうしたの?」
「悪い、考え事を少し」
「もう、ロゼは色んなことを考えるのね。いつもいつも悲しそう。ここに来ているのだから、もっと楽しんで!」
「……」
パンドラは、残りの宝石を集めて差し出してくる。しかし、ロゼはそれを受け取れなかった。
善意に触れれば触れるほど、身が爛れるように痛むのだ。彼女は優しいのに。ずっと、想ってくれているのに。自分は、結局。
「宝石遊びの気分じゃないの? だったらこれはどう?」
ロゼが見つめる先で、パンドラはいろんな箱を開けて回る。美味しいお菓子は。カード遊びは。本の世界を旅するのは……魔法の箱が開いていくたび、ロゼの心は締め上げられていく。
「ぐ……あああっ……うあ……」
「ロゼ!! 大丈夫!?」
異変に気づくパンドラ。だが、ロゼはその手を取ることができない。いちばん大切な人の善意など、猛毒だ。取ってしまえば、更に悶え苦しむ事になる。
「すまない、“あれ”が……私を食らっていくのを感じるんだ……」
「ロゼ……苦しそう。ごめんなさい、私が……」
「その不安さえも薬になるのが恨めしいな」
ロゼは大きな咳払いを一つして、立ち上がる。
自分は狂っている。壊れている。
いつもは取り繕い、上手く演じているだけだ。
本当はもっと、楽になりたい。もっと、自由になりたい。助けてほしい。救い出してほしい。
この軛から解き放ってほしい。けれど、それは出来ない。色々な方法を試したが、それでも――悪意は、世界中に出回っている。そのため、傷がつけども一向に癒えるばかりなのだ。
だから、ロゼは諦めた。そして、諸悪の根源である悪意を生み出す人々を殺すことにした。悪意に溺れさせて、優れた人間を大災禍に仕立て上げるのもそれが目的だ。人間に悪意の泥を浴びせて、共に堕ちて。
悪意を求めざるを得ない状況になったとき、駒たちは嗜虐の限りを尽くす。それを眺めながら、ロゼは暇を潰している。
顔色の悪いロゼを見かねたパンドラは、大木に駆け寄り、側にあった箱から毛布を取り出す。この世界にある箱は何でも望むものを取り出すことができるのだ。
世界の中心に聳える大木に背中を預け、ロゼとパンドラは一時の休息を共にする。
パンドラは宝石を眺めながら、ふんふんと鼻歌を歌っていた。
「……パンドラ」
「なぁに?」
「私の事は、どう思っている?」
ふふっ、と彼女は笑う。
そんなこと、わかってるでしょとでも言いたげに。
「大好きよ。ずっとずっと、私は貴方の味方だから」
その言葉に、ロゼの胸のなかはずきりと疼く。
これは夢の中。自分が作り出した、少女の幻影だ。自分に都合のいいような回答が返ってくることぐらいは知っている。
「……そうか」
その言葉を最後に、ロゼは唇を閉ざす。
流れる沈黙を埋めるように、パンドラはまた鼻歌を歌いだした。
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