「おはようございます、我が主」
変わらない朝。変わらない景色。変わらない関係。目を覚ませば、悪魔が立っている。
だから、起きたくない。スィエルは深い眠りに落ちようとして、体を傾ける。
「朝食の準備は、もうすでに出来ています。さぁ、起きて」
悪魔は今日も笑っている。心の中に、悪意を潜めて。
「ふふっ、まだ起きたくない……とでもいいたげだ。そんなに起きたくないなら強引にでも――」
ブランケットを引き剥がされる前に、仕方なく身を起こす。
「なんだ、起きていたならそう言ってくれれば良かったのに……寝ぼけている、という訳でもなさそうだ。ずっと起きていたのに、惰眠を貪ろうとするなど……怠惰の悪魔でも取り憑いたのでしょうかね」
「悪魔……もうやめてくれ。私は悪夢を見たくないんだ。私は愛されたかった。ただ愛して欲しかった」
「何を言っているんです? 私は、貴方を愛している。かけがえのない存在だと、認めている。それではまだ足りないと?」
「……違う。お前が私を大事に思ってくれていることは知っている。でも、私はこれ以上殺せない。血を代償に何かを得るのは、もう無理だ」
その瞬間、悪魔の笑みが一段と深まる。喜びではない。憐れみ、蔑み、嘲り――。負の感情を集約したかのような、暗く陰のある微笑み。
「ふふっ……ああ、辛い思いをするぐらいなら、最初から貴方を壊してしまえば良かった。そうすればずっとずっと私を見てくれたのに。でも、ようやく貴方を手に入れられる。私と同じように壊れた貴方が」
「何をする気だ……」
「ふふっ、さぁ? 何でしょう。でも、私が手を下せば、貴方の意識は諸共吹き飛びますから。今教えた所で貴方は覚えていませんよ」
悪魔の手が閃き、力任せに首を絞める。呼吸をする手段を奪われ、もがくが、話にならない。
「あは……あぁ、苦しいでしょう? 痛いでしょう。悪魔と契約するということがどれだけの過ちか、思い知るといい!!」
助けて。苦しい。奪いたくない。殺したくない。
右腕と右足を失った、紫紺の髪の青年がうなだれている。その傍らには、大量の骸達。
這い寄る影。青年の瞳は曇り、閉ざされている。
豪華絢爛な城の中。飾られた笑みを浮かべた誰かが、青年の心を破壊していく。
――殺せ。奪え。お前は、強欲の罪にいずれ喘ぐことになるだろう。
――欲しいか。そうだろうな。お前はそう欲するように造ったからな。
――####。お前の名は、####だ。
この記憶は――。
だが、正解に辿り着く前に、何者かが夢を虚ろへと導いていく。整った美しい立ち姿。美貌の裏に隠された狂気。雪のように白く透き通るような髪をたなびかせ、金の双眸を煌めかせる。
「ロゼ・ヴァレンティーン……」
「くくっ……悪魔の記憶を見たか。これは面白い展開だ」
「巫山戯るな、今出てきて何をするつもりだ」
「随分と粗暴な物言いだ。私が来なければ、お前は奴の悪意に骨の髄まで穢されていたぞ? 時を止めてやったのだ、感謝の一つぐらいあってもいいはずだが」
言われて周囲を見渡してみれば、確かに悪魔の動きが止まっている。それに、叫びも聞こえてこない。
「奴は、お前を殺そうとした……正確には、意識を奪い取り、感情を殺させ、廃人状態にしようとした、というべきか。異常な執着だが、強欲の罪に囚われている以上、あり得ない話ではない」
ロゼは表情を崩さずに語り続ける。
「……お前だけを欲し、乾ききっている。時を動かせば、すぐにでも喰らわんとしている。私と取引をしろ。この前と同じように、血を吸わせろ。そうすれば、お前に彼の手がかりを渡してやる」
「手がかり……だと?」
「ああ、拒否する理由はないはずだ。鍵がなくて困っていたのだろう? 悪魔の過去について知りたくて仕方がないのだろう?」
ロゼの言葉が、じゅくじゅくと音を立てながら、脳に染み渡る。ゆっくりと、しかし確かに相手を一つの選択へと導く――。悪魔の囁きを受けた人間は、他の道を見失う。意志など関係ないとでも言うように、首は縦に振られる。
「交渉成立、だな」
ロゼの手が、スィエルの首に触れた瞬間。鮮血が噴き出し、薔薇の花びらのように宙を舞う。氷のように動かなかった瞳がゆっくりと細められ、血に飢える獣の瞳に変わっていく。
「ああ……どこまでも舌の上に絡みつき、私を離さない……ふふっ、悪いな。制御が効かない。お前を貪り尽くしてしまいそうだ」
「なっ……!! おい、ロゼ!!」
手ではなく、今度は直接的に。一瞬で距離を詰められ、どうすることもできない。研がれた牙が皮膚を貫き、激痛が全身に奔る。
「もう少し吸わせてくれ。悪魔は、目の前の欲望には抗えないものでな。どうやら、あの馬鹿を止めるために相当な魔力を消費したらしい。腹が減って仕方ない」
ロゼの口からは、既に大量の血がこぼれている。だが、吸血をやめる気配はない。それどころか、更に噛みついてくる。
「お、おい……いい加減にしろ!!」
「くくっ……あぁ、これは失礼……で、止めるとでも?」
「があっ!!」
束縛からは解放されたものの、まだ攻撃は終わらない。
「私の欲望を満たすまでは、に変えさせてくれ。勿論、殺さない程度には留めるが……それに見合った報酬は用意してあるから安心しろ」
結局、散々な目に遭った。ありったけの憎しみを込めて、涼しい顔のロゼを睨みつける。
「あんた……悪魔だな」
「分かりきった事を。さて、約束は果たそう。受け取れ」
ロゼの手のひらには光が寄り集まり、棒状のなにかを生み出していく。
「これは……」
現れたのは、白銀の輝きを放つ笛。何やら文字が刻まれているが、とても読めない。しかし、中央に描かれた花の模様には、何か意味がありそうだ。息を呑んで見つめるスィエルに、ロゼは語りかける。
「彼が生前、使っていたものだ。私がずっと預かっていた。今だけは、お前に貸してやろう……私にとってはあまり重要なものでもないからな。それを上手く使えば、正解に辿り着く」
「一つだけ聞かせてくれ、何が望みなんだ。人間の助けをしたり、悪魔として振る舞ったり……」
「私に、望みはない。無から生まれた私は、何も持っていない……あの悪魔は失うには惜しい、それだけだ」
ロゼの瞳が、僅かに細められる。それは、駒としての感想なのか、それとも心からの思いなのか――。ふと、ロゼの目が彼方へと向けられた。眉をひそめ、一点を見つめ続ける。どうしたのか、と問う前に、ロゼの手がスィエルの口を素早く覆った。
「……気づかれたか。その笛はすぐに出すなよ? 鍵が揃ってからだ。人間の手助けはしない。自分で探し出すことだな。それと……」
「お前は、操られたふりをしろ。一応、悪魔に対してはお前が心神喪失になったという暗示をかけ、偽物も用意はしたが……それでも、気づかれないという保証はない」
ロゼの指がパキン、と鳴らされたのを合図に、時間が再び動き出す。青白い光が一瞬を引き延ばし、元の場所へと意識を戻していく。目を開けると、見慣れた城の風景がスィエルを出迎えた。
ロゼに止められた時間の中で、悪魔は強制的に引き剥がされたらしい。寝台の上で首を絞められていたはずなのに、悪魔は暖炉の前の揺り椅子に腰掛けた偽物をぼんやりと見つめていた。暖炉がある深紅の間と、寝室は別の部屋。つまり、相当な距離を移動させたのだろう。
深紅の間には外に繋がる扉があるため、逃がすためにロゼがこの部屋へと移動させたということは容易に想像がついた。
「スィエル……」
悪魔の姿は、半分が闇に覆われており、不気味に揺らめいている。ゆるりと伸ばされた手が、そっと偽物の頬をなぞり、悪魔の目が小さな弧を描く。
「あぁ、あは……あははは……やっと私のものに……はははっ……あはははっ……」
壊れた機械のように、何度も何度も悪魔は笑う。どうやら、偽物であると気づかれてはいないらしい。忍び足で場を後にする。
扉を閉めた途端、猛烈な疲れが襲いかかってくる。だが、これからだ。悪魔の正体を曝き、狂気から解放される。そうしなければ、復讐は終われない。
「……悪魔……お前は……」
いつも連れ添った相棒。助けてくれた恩人。なのに、今はそう感じられない。狂った彼の事を、素直に想えない。
乱れた記憶。閉ざされた過去。一瞬だけ見えたあの光景は、今も焼き付いている。造られた狂気を抱き、狂い続ける――それは、あまりにも哀れで。
ただ淡々と歩を進め続ける。コツ、コツと響く静かな靴音は、空気を震わせる。束の間ではあるが、ロゼの身代わりが悪魔の相手をしてくれるだろう。
その間に手がかりを集め、そして――。
足が止まる。悪魔を止めて、そしてどうなるのだろうか。鼓動が早くなる。息が苦しい。
ああ、そうだ。悪魔がいなくなれば自分は死ぬ。悪魔の血を取り込んでしまった人間は、血を吸わなければ息絶える。
殺すしかないのか。殺さねばならないのか。そこまでして、自分は生きたいのか。
「……ッ」
もう一度、一歩を踏み出す。今まで嫌になるほど長い年月を自分は生きてきたはずだ。城の中で悪魔と過ごし、変わりゆく街を眺め、取り残された悲しみに沈む。そんな生活を、もう続けたくはない。
「ミリシス・ヴォラーレ」
助けになりそうなのは、彼らぐらいしか思い浮かばない。祈る気持ちを抑えて、スィエルは城を後にした。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!