孤城の夜想曲

伝承の復讐者
宵薙
宵薙

#30 空っぽの化け物

公開日時: 2021年5月17日(月) 23:34
更新日時: 2021年11月15日(月) 00:30
文字数:3,123

「……入れ」


 パキン、とガラスが砕けるような音が響いた後に、細かな装飾が施された燭台に火が灯る。暗闇にひっそりとたたずむ人影に、思わずエルシャは身をこわばらせた。この先には、進んではいけない。そんな第六感がびりびりと働いている。


 だが、動揺が外にまで漏れていたのだろう。人影が揺れる気配がし、布が擦れる。


「それほど恐れずとも、喰ったりはしない」


「貴方は何者なのですか? ここは、一体……?」


「お前達の言葉を借りれば魔界、といえばよいのか。悪魔や魔物が住まう場所だ」


 悪魔に、魔物。ごくり、と息を呑んだエルシャの様子を見ていた何者かは、くくっと喉を鳴らす。

 闇の中から現れたのは、雪のように白い髪をなびかせた麗人。中でも目を引くのは、金色に輝く双眸だ。悪魔や魔物と聞くとどうしても悍ましい化け物の姿を想像してしまうが、目の前に立つ男は、そのイメージからはかけ離れている。


 黄金色の稲穂のような穏やかな煌めきにしばしエルシャが見とれていると、視線に気づいた男は微笑をこぼした。


「私のこの姿は、仮の姿だ。本当の姿を見れば、その頃にはお前の意識は消し飛ぶだろうからな」


「見ただけで……そんなことが?」


「ああ、一度試した愚か者は全員殺した」


 その言葉でエルシャは悟る。何かの特殊能力ではなく、また嘘でもない。全てが事実であり、己の実力を披露するために話をしているのだと。圧倒的な実力で、環境さえもねじ伏せる。それが、この男のやり方なのだと。


 笑みを浮かべてはいるが、それは彫像のように固まったもので、人間味を感じない。一切の感情を捨ててしまったかのような無機質さがそこにはあった。美しさは感じるが、感じるように造られたものだと意識すると、急に背筋が凍るような思いだった。


 恐怖を読み取った悪魔は、艶やかに微笑む。その笑みに、優しさは残っていない。ただ、どれだけ耐えられるのか――怯える獲物をじっくりと観察し、誘い込む獣の瞳だけがエルシャを真っ直ぐに見据える。


「悪い、お前をここまで呼んでおいて名乗るのを忘れていたな。私の名は、ロゼ・ヴァレンティーン。傲慢の悪魔だ」


「傲慢の、悪魔……?」


「そうだ。悪魔にも種類がある。私たちのような順位が付けられている者は大災禍とされている。その中でも私は第一位……というわけだ」


「ロゼ様は、我らの支配者。偉大なお方なのですよ」


「……ふふっ、そう言っておきながら私の首に刃を突き立てたことは忘れていないぞ、シェラー・ヴィージス?」


 瞬間、場の空気が凍り付く。ありもしない賛辞を並べたシェラーの手に隠されたナイフ――それも全てお見通しだったのだろう。ぎり、と音を立てて食いしばられる歯の音をかき消すかのように、ロゼは鼻で笑った。


「話が逸れたな。人間界からはるばるご苦労だった。一応、お前の事はシェラーから聞いている」


「私の望みを叶えてくれる、というのは本当ですか」


「ああ、それぐらい造作のないことだ。だが……我々は代償を頂かなければならない。命を捨てることになっても、力を望むか?」


 命を捨てることになる、それはエルシャにとって辛いことだった。だが、あの戦場で家族が生きているとも思えない。生きていたとしても、姿を見られたくはない。


 それぐらいならば――力を得て、もう一度戦場に戻りたい。今度は、叛逆者として。


「構いません。私はもう、あの場に人として戻る気は無い。人ならざる者として扱われたのならば、いっそ、その通りに踊ってやればいい」

「……そうか。では、始めよう」

 

――それから、どれほどの時間が経ったのだろう。

 

 意識は闇に沈み、許容しがたい何かが脳内を支配していくのを、エルシャは感じていた。ああ、これが代償か。そう思いながら、深く、暗いところを進んでいく。

 

 本当は怖いはずなのに、今は不思議と恐怖を感じない。それどころか、もっと先へと足を進めたいとさえ思ってしまう。

 

 ふわふわ、ぷかぷか、ぶくぶく。エルシャは、己の欲望に従って、奥深くに潜り続ける。大事なものも、大事な人も、全部手放して。ただ、快楽に溺れ続けて。


 忌まわしい戦場が、目の前に開ける。その中で自分は、奇声を上げながら仲間の首を絞めている。自分の異常さを意識した瞬間、脳内を駆けたのは、恐れでも自己嫌悪でもない。


 喜びだった。


 いつの間にか復活した手を使って、力の限り絞め上げる。願いは叶った。だが、その代わりに離してはいけないものを手渡してしまった。


 砕けていく。壊れていく。消えていく。呆然と立ち尽くすエルシャの元に、這い寄る黒い影。目を向けてみれば、笑みを貼り付けた悪魔が立っている。

 

「さぁ、私の手を取れ。そうすれば、お前の欲望は全て満たされる」

 

 悪魔の微笑みが、哀れな青年を招き入れる。全てを奪われ、空っぽになったエルシャは、自分が何をしているのかも最早分からなくなっていた。言われるがままに、悪魔の手を取る。その瞬間、エルシャの身体全体を影が呑み込んだ。


「あ……がっ……」


「大丈夫だ、すぐに終わる。まぁ、今のお前には興奮の材料かもしれないが。悪魔は、痛みや苦しみが快楽の元になる……だから、どれだけ痛みを感じたとしても、最早それは手放せないものになっていく。……ふふっ、もっと欲しいか。ああ、そうだろうな……お前は与えられたものを欲するままに貪り尽くす――そう造ったからな」


 ロゼの追撃は止まらない。嗜虐的な笑みを浮かべたまま、エルシャの頭を鷲掴みにして、呪いをかけていく。


 殺せ。奪え。単純な命令が脳を支配し、人間から化け物へと作り替えられる。だが、それは望んだことだ。

 人では無い、冷酷で非情で、殺戮を苦としない何者かになれればそれでいい。


 もう何も考えたくはない。辛い、苦しい。そう思いたくない。

 ならば、自分を壊せばいい。壊して貰えばいい。願って、その望みを叶えて。そうして、誰にも見放されて。


「……ロゼ……様……」


「ああ、そうだ。お前はただ、尽くせばいい。駒になればいい。奪え。手に入れろ。己の欲望に従え」

 

 代償の大きさに震えながらも、止まることはできない。過ちに向かって突き進むだけだ。

 新たに得た腕と足。命と引き換えに得たものがこれとは笑われるだろうが、それでも望んだものは手に入れた。


 武器は揃い、舞台は整い、あとは自らが上がるだけ。なんと楽なことか。


「くくっ……エルシャ。いや、エルシャ・ヴェルニス。お前は近いうちに私の元へ来るだろう。更なる力を求めて必ずその身を滅ぼしに来るはずだ。その時には、シェラー・ヴィージス……奴を殺すといい。きっと、いい贄になる」

 

 エルシャは、親の言うことを聞く子供のように頷く。ロゼの瞳は相変わらず凍えたままだった。


* * *


 それから何年もの月日が流れ、その間に色々な人間と契約を交わしてきた。願いを叶え、代償として血を流させ、最終的に主を殺した事もある。


 だが、ここまで愛したいと思えたのはスィエルが初めてだった。求め、共に歩みを進め、城で過ごした日々はかけがえのないものになっていた。


 境遇が似ていた、というのもあっただろうが、それよりも大きかったのは、「求められる喜び」だろう。


「……私は、貴方を守りたい。まだ貴方に仕えていたい」


 何もかもを奪われてしまった今、何か縋れるものが欲しかった。大事にしたいもの、守りたいもの。それが欲しかった。


 独りよがりの自己満足だと言われてもいい。嫌われてもいい。ただ、思い続ける事が出来ればいい。


 エルシャは、眠るスィエルの額に手を添える。たとえ彼が壊れてしまったとしても、自分だけを愛するように。


 抑えきれぬ欲望が、背中を押す。堪えきれぬ悲しみが、思考を狂わせる。震える手を強く握りしめ、強欲の悪魔は全てを手に入れるために動き出す。

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