ロゼと最初に会ったのは、燃え盛る街だった。そこは、ニーシャが物心ついた頃から過ごしていた場所で、あと数日で始まる建国の祝祭に向けて準備が行われていた最中の出来事だった。
飾り付けが既に終わった街の中心部でも火の手は上がり、辺りは騒然としていた。最初は何が何やらわかっていなかったが、風に乗せられた焼け付くような臭いで危機を察し、人波に揉まれながらも何とか街の外れの噴水広場まで辿り着いた。
周りの人々が逃げ惑っているのを、彼は悠然と眺めていた。手を貸すことも、邪魔をすることもなく眺めていた。
まるで、箱の中で動く玩具を見つめる子供のように。彼は、ただそこに立っていた。
のんびりと散歩をしていただけの自分には、それが異質な存在であることは分からなかった。ただ、この人はどうしてしまったのだろうと。そんな心配が胸の中に溢れてきて、近づくことにした。
「……?」
その青年は、美しい金色の瞳をしていた。だから、最初は綺麗な人だと思った。彫刻のように滑らかな肌に、整えられた顔立ち。すらりと伸びる腕には、目と同じ色の刺繍が施された布をまとい、どこか浮世離れした見た目をしていた。
みゃぁ、と鳴いてみせると、彼はぽふと頭を撫でた。細く伸びた指に触られるのは、心地よかった。
「猫……か。お前は、どうしてここに?」
どうしてもなにも、散歩をしていただけだと答えると、そうか、とだけ言ってまた黙り込んだ。不思議な出会いだった。
「それから、ロゼとおれはしばらく街を歩いて回った。怪我人の介抱をしたり、食べ物を与えたりしていて、最初はいいやつだと思っていたんだ……でも」
その笑みに潜められた悪意に、早く気づくべきだった。
街が焼けてから数日後、今度は別の場所で大火事が起こった。ロゼは相変わらず冷静で、すぐに準備を済ませて、淡々と火傷を負った人たちの手当てをしていた。だが。
ここでおかしいと思わなかったのが間違いだった。
何故、助けるのか。
何故、初めて出会ったときには火を呆然と見つめていた青年が、ここまで完璧に対応できるのか。
「どこに行ったんだよ、あいつ……!」
火事に巻き込まれた人の救助は、猫である自分にとっては至難の業だった。まず、身体が持ち上がらない。猫と人間とでは体格差がありすぎて、術式で浮かせようにもあまりの熱気ですぐに集中力が切れてしまう。
だからロゼと共に救助を行っていたのだが、彼は何も言葉を残すことなく、突然姿を消したのだ。
くたびれ果てた体を引きずり、からからに渇いた喉を震わせ、何度も何度もロゼの名を呼んだ。しかし、返事はなかった。
最悪の事態も想定した。炎に呑まれ、意識を失ってしまっているのではないか。そう思った。
だが、そんな心配をしていた自分を呪いたくなるほど――。衝撃の再会は案外早くに訪れた。ロゼの姿を見たという話が、耳に入ったのだ。
はやる気持ちをどうにか抑えながら、走った。走って走って、ようやく辿り着いた所で彼は待っていた。
そこは、遙か昔の戦争で亡くなった戦死者達を弔う場所――深紅の花が風に揺れる、小高い丘の上。
再び会ったとき、ロゼの瞳は明らかに淀んだ光を放っていた。纏っていた純白の衣は鮮血に濡れ、至る所に紅い華が咲き誇る。雪のように白く透き通るような輝きを放っていた髪も、今では見る影も無い。
黒猫の姿に気づいた彼は、ほんの少しだけ目を細める。艶然と笑む姿に、最早人間味のある感情は欠片も残されていなかった。
「ふふ、お前はもう火の中かと思っていたが……なるほど、私の見込んだ通りだな。それならば試す価値はありそうだ」
「試す価値……? お前は、一体何を言っているんだ……」
だが、それには答えない。その代わりに、ロゼは何やら紅い宝石を生み出し、ころころと手の上で転がしてみせる。
「これは、血を固めた結晶だ。血が一番美味くなるのはいつか、お前は知っているか?」
「知るかよ、人間の血なんて食ったことない……それより、お前……人間じゃ、ないな」
「あぁ、そうだ。人間ではない。悪魔や魔物……といえば良いのか。そんなところだ。この血を喰らって、我々は生活している」
ロゼは手にした結晶を砕き、その破片を口の中に流し込む。それで食えるのかと疑問ではあったが、どうやら飲み込めるらしい。
「話を戻そう。血が一番美味くなるのは、希望から絶望への落差が最も大きいときだ。だから、助けた。だから、逃がした」
しかし、奪うと決めた獲物を取り逃すことはしないがな、とロゼは付け加える。
「お前に見られたのは失敗だったが……まぁ、いい。喋る猫と戯れるというのも悪くはない」
「何なんだよ、お前は……ッ」
その問いを待っていた、とでも言いたげに、血の気が失せた唇が緩む。
「大災禍の第一位、ロゼ・ヴァレンティーン。無から生まれ、全てを悪意によって支配せんとする者だ」
悍ましさと美しさを兼ね備えた笑みを湛え、魔の支配者はそう名乗る。
そして、血に塗れた手がすっと伸ばされ、圧倒的な引力によって為す術もなく引き寄せられた。
「がっ……」
「捕まえた。くく、いい目をしているな……その目を今から歪ませると思うと……」
細い指が喉に絡みつき、音がするほど勢いよく絞め上げる。呼吸をすることも許されず、宙を掻くことしかできない。徐々に細められていく金の瞳。紅い舌がつ、と唇をなぞり、この状況を楽しんでいることを示す。
「……お前も、私と同じ……か。哀れなものだな」
「同じって……かはっ……!」
「あぁ、喋らなくていい。じっくりとお前の悪意を味わわせてくれ」
ほんの少しだけ見せた隙を、圧倒的な力によって無にする。ロゼの戯れはしばらく続き、体には消えない傷がいくつも刻まれる事になった。
それからは、気づいたときには見知らぬ地に飛ばされ、ロゼの凶行を止めに入るという宿命を負わされた。
なぜ、とは思うが、何度問うても、どこで調べても、この悪戯を仕掛けたものが誰なのかははっきりしなかった。
増えるのは謎ばかりだ。ロゼが語った、「同じ」とは一体どういう意味なのか。なぜそのような言葉を敢えて吐いたのか。
無力な猫である自分では、あらゆる手を尽くしても何も分からなかった。
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