「ふふ、流石に驚いた顔をしている。何故、と聞きたいか」
エルシャは静かに頷く。
正直、なぜロゼが来たのかわからないのだ。
思い当たるふしも見当たらないし、それより今は忙しい。煽って愉しむために来たならば早めに帰ってほしいと願う気持ちは、次の言葉で彼方へ飛ぶこととなる。
「種明かしは必要か?」
「種明かし?」
「驚いたな。何も分かっていないのか……それは面白いことになりそうだ」
笑いを抑えようと口に手をやり、一人で物事を完結させつつあるロゼに、エルシャは眉をひそめる。面白いこととは何なのか。
「ロゼ様……?」
「ふっ、そうだな。焦らしていてもお前がこの可能性を考えられるとは思えないか」
「ッ――!」
煽られ、高ぶる思いをどうにか留め、微笑を浮かべるロゼの種明かしを待つ。仕掛けが分かってから斬っても遅くはない。今はただ、待たなければ。
ロゼが指を鳴らすと、その瞬間にスィエルの亡骸は塵となり、ロゼの手へと吸い込まれていく。そして、手をさっと払うと、再び虚ろな目をした主が目の前に現れる。
まさか。まさか、まさか。
「貴方が……ロゼ様が、この偽物を……」
「ああ。ここまで気づかないとは思わなかったが」
頬を脂汗が流れる。贋作の造りはとてもよく出来ていて、確かに魔力の揺らぎなどは感じなかった。そのせいで発見が遅れたというのもある。しかし。
「……どうして」
そう、聞かずにはいられなかった。何故人間に手を貸したのか。何故、身内であるはずの自分を騙したのか。からからに乾いた喉をなんとか唾で潤して、途切れ途切れの言葉を紡ぐ。
「ロゼ様……スィエルを、スィエルをどうして私から引き剥がしたのです……?」
「わからないか? 我々は、人間の敵。主を愛せとの命はないはずだが」
「……」
そうは言われてもやはり諦めることは無理だった。認められたい。愛されたい。そんな愚かな欲望が顔を出し、徐々に心の中を蝕んでいく。項垂れるエルシャを一瞥し、ロゼは静かに息を吐く。
「お前はただ、殺せばいい。我々は大災禍。血塗られた道を歩み、犠牲を手にし、解かれることのない鎖に縛られる者だ」
ロゼが指を鳴らすと、紫色の帯によって目が塞がれる。いつも夢を見せるときに使う魔術だ。視界が塞がれると、恐ろしいほどの情報が一気に脳を駆け、濁流のように悪意が押し寄せてくる。
「あぐっ……」
あまりの痛みに、エルシャはがくりと膝を付いた。だが、そんな事で手を緩めるほど、主は甘くない。
怖い、苦しい。なのに――それを求める自分がいる。悪意がほしい。痛みがほしい。何もかも、全てが欲しい。
だから、奪いたい。奪って奪ってこの渇きを潤したい。悲しみが、悪意によって癒やされていく。空っぽの自分がどんどん埋められていく。僅かな安心感のために多大な犠牲を払う――それは、自傷行為でしかないというのに。
「あ…………あぁ……ッ……!!」
「目を背けるな。その目で確かめろ」
「ロゼ……様……私を……」
「あぁ、分かっている。ほら」
目隠しをされた状態で、探りながら伸ばした手がとられる。血の通わない、冷たい手だ。
力を持たぬ弱者をこれでもかと酷く扱うのに、支配される事を望むのは何故なのか。甘く囁かれる誘いを、どうして拒むことができないのか。
目の前が暗くなる。何も見えない。
その中で手を差し伸べるのは悪魔だけ。
ロゼによって精巧に作られた夢の中に身を預ける。いつまでも安らかな夢の中に揺蕩いたいならば、その犠牲に膨大な量の血を渡さねばならない。
だが、そんなものはどうでもいい。今はただ、癒やされたい。苦しみから逃れたい。だから。
「ロゼ様……これを」
「今日は随分と多いな。そんなに溺れたいのか」
人の頭ほどの大きさの結晶を、ロゼの手に載せると、目だけでなく全身が包まれていく。繭の中で眠るだけ。それだけで――全てが忘れられるなら、この程度の犠牲は易いものだ。
スィエルと共に過ごす虚構の世界が、まるで現実のように目の前に映し出される。三百年という膨大な時間は、いつしか離れがたい関係を作り出していた。
人間に対しての恨みが消えたわけではない。裏切られた悲しみは今も強く心にのしかかっている。
だが、この主にならばすべて捧げてでも仕えたいと思ったのは事実だった。空っぽの自分に意味を与え、生活をよりよく生まれ変わらせてくれた人。今まで虐げられる事しかなかった自分に、優しく笑いかけてくれた人。
大事な人だったからこそ、その喪失は耐え難いものだった。自分がおかしくなっているという自覚はある。与えられた強欲という罪に逆らえず、何もかも貪り尽くしてしまう自分が怖くもある。
だが、その恐怖以上に――自分を棄ててでも、籠の中で大事に大事に守り抜きたい。そんな欲望が溢れてやまないのだ。
あぁ、憎い。寄り集まる人間たちが憎い。今まで虐げていたのに、境遇を知った瞬間同情して。今までの罪がなかったかのように優しく接して。
それで、抉られた心が戻るわけでもないのに。それならばいっその事突き放してくれたほうが、まだいいのに。
幸福に満ちた夢も、今となっては毒にしかならない。苦しみから逃れるどころか、癒えぬ傷を更に深く抉られ、エルシャは呻いた。
「あぁ……ああ……あああああ……!!」
「頃合いか。エルシャ、そこまでにしておけ。お前には夢よりも――」
「狂気の方がよく効きそうだ」
瞬間、目の前が幸せな光景から一変し、戦場の光景に切り替わる。逃げ出したい。早くこんな場所から離れたい。そんな思いよりも先に身が動く。
与えられた悪意が膨れ上がり、自然に手が剣を引き抜いた。殺し、奪い、さらなる力を手に入れたい。暴走は止まらずに、敵も味方も等しく切り刻む。
「思う存分暴れるがいい。今までの恨みを全て放つほどに」
「……!!」
頭を鷲掴みにされた後に、圧倒的な殺意がねじ込まれ、一気に剣を振るう速度が加速する。止まらない。止まれない。苦しくて、辛くて。それでも死の舞踏は終わらない。
どうにか足に力を入れて踏みとどまるが、意識を離せば次の瞬間にでも倒れそうだ。大量に返り血を浴びても笑みを崩さず、冷ややかな瞳で傍観を決め込む主には、何を言っても無駄だろう。
「いい殺しっぷりだった。だが、甘いな。狂気を持ってなお、冷静に捌く――そう教えたはずだが?」
「……」
「まあ、いい。どうせこれは虚構の中だ。どれだけ暴れようと腹の足しにはならないが、気は済んだだろう? さぁ、お前の主とやらを迎えに行こう」
音もなく近づく悪魔の誘い。それは、受け入れてしまえば瞬く間に堕ちていく。だが、辞められない。傲慢な主には、逆らえない。
絶対的な命令がエルシャを縛り付け、服従を強いる。呪いのように吐かれる言葉は、するりと心のなかに広がっていく。
「下らない忠誠心など捨ててしまえ。あの男は、お前を裏切ったのだから。お前は、もう従者ではないと言われたのだから。それよりも今、目の前に立つ指揮者の言葉を信じたほうが……利口だとは思うがな」
「……」
耳元で浴びせられる毒は、悍ましいほどの悪意が含まれている。ロゼの表情はあくまで穏やかだが、中身は全く穏やかではない。
感じるのだ。明らかな殺意と怒りを。ここまで昂ぶりを見せる支配者の顔は、それでも仮面の下に真意を隠している。
「エルシャ」
「……」
「奴をどう殺したい?」
「……それは」
「ふふ、やはり人間はここで迷うのだな。お前が一番怒り、悲しみ、嘆きを見せて良いはずなのに」
人間ではない、化物の男。
彼は人間味というものが欠落しており、人間を単なる実験道具程度にしか考えていない。だから、容赦がない。奪われる苦しみを、彼は知らない。
「殺せないのであれば、呪ってやればいい。永久に苦しみを味わわせるならば、許可しよう」
「……出来ません。それが、貴方からの命令だったとしても……私は、彼を……」
「くくっ、呆れた忠誠心だな。ならば――」
瞬間、周りの景色が城内から漆黒の壁へと塗り替わる。出ようと思っても、主の赦しがなければ絶対に出られない、魔の箱。あらゆるものを吸い尽くし、無に変えてしまう、暗闇の箱。
「ここできちんと躾けねばなァ?」
「が……あああぁぁぁっ!!」
ロゼはただそこにいるだけだ。
武器の類いは手にしておらず、薄笑いを浮かべて藻掻き苦しむエルシャを眺めている。それなのに。
胸を締め付けるような、強く鋭い悲しみと。
どこまでも光の見えない暗闇に取り残されたような寂しさと。
愛していた人に裏切られ、全てを壊し尽くしてしまうような激しい怒りと。
ありとあらゆる負の感情が波のように押し寄せて、全てを攫おうと身を躍らせる。
「ふふ……ここまでの罰を受けておきながら、それでもなお力を求めようと藻掻く姿は評価しよう。流石は大災禍の第三位だな。エルシャ・ヴェルニス」
「だが、あまりに無謀だ。私とお前とでは格が違う。悪意の密度、取り込める限界、そして――どれだけ、容赦なく奪えるかも」
「っあぁ……ああ……!」
呻きながらも立ち上がり、剣を持って飛び出すエルシャとは対称に、ロゼは一歩たりとも動かない。
「あぁ……その殺意。しっかりと味わいたいものだ」
エルシャの神速の斬撃を前にしても、ロゼは微笑を浮かべ、刃を素手で叩き折る。その一瞬で判断を切り替え、追撃を加えんとエルシャは砕けた刃を利用して遠方からの射撃を試みるが、それすらも呆気なく防がれる。
「ふ、可愛いものだな」
「何を……!!」
「殺意に溺れ、意図を見失っては斬るどころか隙を与えるだけだ」
返しとして、鎖を手に取ったロゼの手が高速で閃いた。縦横無尽に暴れる鎖を躱しても、強烈な蹴りがエルシャの頬を打つ。
剣で攻撃することを諦め、右腕を触手へと変化させるが、その攻撃方法もロゼにとっては既知のものだ。遠距離攻撃のリーチも鎖の前には役に立たず、巻かれてすぐに絡め取られてしまう。
防戦一方のエルシャに対して、ロゼの追撃は止むことを知らない。相手の狙いを正確に読み、それに一番相応しい攻撃で跳ね返す対応力と、それを連続で続ける持久力。
それはまさに、蹂躙だった。
「大概、これを受ける暇もなく前奏で散る者が多いが……単調な遊びにもそろそろ刺激が欲しいところだろう?」
傷だらけのエルシャに対し、ロゼはほぼ無傷だ。それでもなお、罰を与え続けるのは――逆らわないように叩きのめすため。立ち上がる事も困難な状態にまで追い込んでなお、止めはしない。
くくっ、と喉を鳴らし、ロゼは腰に刺さったままの長剣を引き抜く。無駄な飾りはほぼ削ぎ落とされた、相手を屠るための剣。普段滅多に抜かれることはなく、エルシャも全容を見たのはこれが初めてだった。
剣の先端には、取れないほど濃くこびりついた血の跡。そして、剣が放つ尋常でない量の魔力。使い込まれ、振る度に数々の敵を斃してきたのだということはすぐに分かった。
「さぁ、始めようか」
言うより早く、ロゼの身体が霞む。一瞬のうちに回り込まれ、強烈な一撃を加えられる。
重い。そう、エルシャは感じた。
鎖での攻撃も十分に手を焼かれるものだったが、訳が違う。あちらは高速で叩き込まれる攻撃なのに対し、剣での攻撃は一撃一撃が非常に重い。そのため――。
「ぐうっ……!!」
あまりの痛みに身体が動かないのだ。
斬られているのではない。平たい鉄の板で思い切り打たれているようだ。最も、それでも手加減しているのだろう。本当に斬られれば一瞬のうちに絶命しかねない。
「もう降参か?」
「まだ……戦え……!!」
しかし、口ではそう言っていても体がついていかない。悶え苦しむエルシャの背を、ロゼは黙って踏みつける。がっというひしゃげた呻き声が喉から漏れるが、それにも耳を貸さないままだ。
「教えてくれ。人間は、どうして感情を捨てない? どうして悪意に喘ぎ、身を委ねることを良しとしない? 諦めれば、棄ててしまえば、楽になるのに」
「私は悪意に耐えかねて、真っ先に自分を殺した。無限に注がれる悪意を受け止める坏……その役目は、私には重すぎた。だから己を無にし、最強を追い求めた」
「お前たちは、なぜ抗う? なぜそうも歯を食いしばり、与えられた責務を放棄し、支配者に楯突く?」
「それが、私には分からない。全てを棄てた私には」
怒涛の勢いで吐かれた疑問。
無にした。自分を殺した。それは、一体どういうことなのか。無慈悲で、冷酷で、支配のために飴をばらまく側面しか見たことのなかったエルシャは、酷く動揺した。
一度と言わず、何度もこの話は聞いているのだが、エルシャはそれを知らない。毎回毎回、話しては強力な圧をかけて、ロゼが記憶を抹消しているからだ。
「ロゼ様……?」
「……ふふ、お前たちは知らなくていいことだ。これは、私の…………」
そこで、情報が途切れる。
そして、その代わりに背から足が離れ、悪意が注ぎ込まれる。
エルシャは分かっていないが、これもロゼのいつものやり方だ。立つ鳥跡を濁さず。都合の悪いことを水に流し、支配を可能にする。
酷いめまいと響く怨嗟は、聞く者の精神を乱し、狂気へと連れ戻していく。
だが、今回は違った。
悪意の他に、何かが流れてくる。
少女と、白髪の少年が楽しそうに会話している。
白髪の少年は、気弱そうだが、一方で少女は快活な雰囲気だ。これは、何の意味を持つのか。
疑問をよそに、エルシャの意識は闇に沈んだ。
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