首を絞められ、街道のレンガに叩きつけられたとき、真っ先に思ったのは胸をかきむしるような後悔だった。
赤目がどんな苦しみを味わっていたかなど、考えたことはなかった。赤目は差別されるべき存在で、嫌われるのが当たり前なのだと、そう信じて疑わなかった。だから。スィエルの叫びを聞いて、リーベは、はっと気づかされたのだ。
この場にいない、赤目のことを考えたことはあるか。
ない。そんなものは一度としてない。赤目はのけ者、赤目は邪魔者。それが、「普通」だったから。
「ごめんなさい」
絞められた首からしぼりだされた声は、自分でも驚くほどか細かった。ひゅー、ひゅーと木枯らしのような息が虚空に消える。
まだ、喉を掴まれた痛みは残っていたが、それでも己の心を――今まで自分がしてきた事への謝罪を、目の前に立ち尽くす青年に伝えることが先だとリーベは考えたのだった。
スィエルは、軍帽を外し、前髪を払って赤い瞳を見せる。
ガラス玉のような、無感情で沈黙を貫く瞳ではなく、淡く柔らかな光を湛えていた。
男性にしては長い銀色のまつげに彩られた切れ長の目が伏せられ、それから真っ直ぐにリーベの瞳を見る。
「赤目の人間がどれだけ屈辱を味わったか、考えろと言っただけだ。別に謝罪は求めていない。謝ったぐらいで私の傷が……私達赤目の傷が癒えるなら、こんなことはしていない」
「でも、でも……」
「謝るというのなら、せめて君だけでも理解してほしい。赤目の人間が背負ってきた罪の歴史を知ってもらいたい。そうすれば、赤目の人間が傷つくことは減る……私のような殺人鬼が生まれる心配もない」
そこでスィエルはほぅ、と小さな嘆息を漏らす。しんしんと凍る夜の空に、その音はよく響いた。
「赤目の事を許せ、とまでは言えない。私も散々殺し、奪い、その犠牲を喰らってきたから。だが、この身に降りかかった灰を取り除くことができれば……私も、心安らかに死ねるのだと思う」
スィエルの身に何があったのかはリーベは知らない。知ることが出来ても、その辛さを完璧に理解できるわけではない。だが、理解しようと思うことはできる。分かろうとする努力は出来る。
「私、貴方とやっぱり話したい。もっと貴方のことを知りたい」
「……いきなり殺しにかかってきた人間の言葉だ、信用ならないな」
「じゃあ、握手しましょう」
握手? と首をかしげるスィエル。言葉が通じなかったのか、と一瞬リーベは焦るが、今までは普通に対話が出来ていたはずだ。
若干の訛りの違いはあったものの、学生であるリーベは古典文学を習っていたためそこまで不思議とも感じなかった。
まさか、とリーベは一つの可能性に思い当たる。そんなわけはないだろうと内心思っていたが、聞いてみなければ分からない。
「貴方、握手も知らないの?」
「知らない。私は何も分からないから。周りから忌み嫌われていて、人に触れることもなかった。ずっと一人だったから、外の世界がどんな風習があるなんて、知らない。外の世界は、私にとって夢物語でしかなかった」
スィエルはその後、己の身で体験した過去を語り始めた。人間でありながら、人を殺すために育てられたということ。仲間は全員殺され、ただ一人だけ生き残ってしまったということ。何度も何度も首を切りかけ、その痕が積み重なって今も首に筋が残っていること……。
想像以上の過去に、リーベは開いた口がふさがらない。この青年は、いったいどれだけの間、孤独な世界にいたのだろうか。
何日も何日も虐げられ続け、彼は感情が死んでしまったのだ。わざとそう装っているわけではなく、彼の普通はあの目だったのだと今更ながら気づく。
「……なら、私は嫌わない」
スィエルの目が、見開かれる。何を言っているのか分からない、信じられないといったような目だ。口が何度も開いたり閉まったりを繰り返し、肩が震えている。
「なぜ、私を怖がらない? なぜ、私を嫌わない? 私は醜い人殺しだ……私をなぜ憎まない」
「貴方を憎む必要がないから。ただ、それだけ。貴方は何も知らない、と言った。なら、今から覚えていけばいい。せっかく外に出られたんでしょう? ただでさえ、貴方を憎む人はたくさんいるのに、どうして私まで貴方を憎む必要があるの?」
「憎む必要が、ない……だと」
「そう。私まで憎んだら、貴方は本当にひとりぼっちになっちゃう。それに……人殺しなんてしたくないんでしょう?」
スィエルは、無言のままだ。しかし、リーベには分かっていた。本当に殺したくて仕方ないのであれば。殺すことに喜びを感じる猟奇的な人間なら。リーベが出てきた時点で殺し、その死体を眺めて笑っていただろうと。
だが、そうではなかった。
スィエルの目には迷いと、悲しみの暗い光が漂っていた。だから、リーベは確信した。
この青年は、別に復讐を願っているわけではないのだと。本当は孤独から救い出してほしくて、だがその願いは叶うことがなく、彼は剣で己の身を守るしかなかったのだと。
「そんなに、悲しそうな顔をしないで。私は、貴方が嘘を言っていないと信じるから」
「根拠は、どこにあるんだ。私が嘘をついていないとどうしてそう言えるんだ」
ああ、とリーベは青年の心を哀れむ。彼は人を信じることを怖がっている。人と同じように生きたいと、そう願いながら。
人に裏切られ、見下され、人と関わることを恐れている。リーベは傷だらけの手で、そっとスィエルの頬に触れる。
冷たい。でも、血は通っている。とくとく、と血管から伝わる心臓の鼓動。唇から吐かれる熱い吐息。
化け物でも、殺人鬼でもない。彼は、人の温かみを知らないだけの、目の色が少し珍しいだけの、普通の青年だ。
「根拠なんてない。でも、貴方の言葉は信じられる。貴方の目は正直だから」
スィエルは、うつむく。その目には怯えがある。人間に対しての恐れが、まだ拭えないままなのだろう。
「私は……私は、ずっと一人で……誰にも認められなくて……実験に使われて、何度も何度も叩かれて……怖かった。人が憎くて仕方なかった」
「貴方は、とっても辛い思いをしたと思う。でも、それで誰かが傷ついたら、貴方はまた嫌われてしまうの。貴方とわかり合いたい人はいっぱいいるのに、貴方が殺してしまったらどうすることもできない。だから、剣を捨てて。貴方は戦わなくていい。どんなに嫌われても、私が……」
そのときだった。黒い靄のようなものがスィエルの体から湧き出し、リーベの体を払いのける。靄はそのままどんどん広がり、あっという間にスィエルの体よりも大きくなってしまった。
そして、靄の中からはスィエルに似た何かが現れる。姿も、着ている軍服も一緒なのに、何かが違うのだ。
「水を差すのも私の美学に反しますから、様子は見ていたのですがね……スィエル。それ以上は契約違反ですよ」
「契約違反って……貴方とスィエルに何の関係があるって言うのよ。まず、貴方は何?」
「私は悪魔。彼とは主従の関係。彼が主で私が従者。しかし、逆もまたあり得る。そんな関係です。汚らしい人間が我が主の事を知ろうなど……吐き気がする」
「貴方がスィエルの何を知っているっていうの? そもそも、契約したというのならスィエルの悲しみをどうして分かってあげなかったの?」
「悲しみを理解していないとは、とんだ勘違いだ。私は彼を愛してさえいるというのに。愛して、認めて、欲しいものは全部与えて……彼はこの三百年、何一つ不自由はなかった。そうでしょう? スィエル……」
青年の瞳は闇に閉ざされているが、悪魔は艶やかに微笑む。そして、スィエルの顎に白く細い指をそっと這わせる。
「愚かな人間に心を許すなど……あの憎しみを忘れてしまったんですか? 檻の中で泣き叫んで、強くなりたいって喚いて……ふふっ、あはははっ……これは、お仕置きが必要ですね」
気が狂ったかのように笑い続ける悪魔と、正気が抜き取られたかのようにぐったりとするスィエル。リーベが見つめる先で、悪魔はスィエルを堕していく。
「戻りましょう、スィエル。貴方に人間との触れ合いは必要ない。貴方は殺人鬼。伝承に描かれた冷酷な化け物。私との契約は、貴方に破ることはできない」
スィエルは頷き、悪魔が口を端まで開いて笑みを見せる。リーベは止めたかったが、動こうとしても悪魔の凍えた瞳と目が合うと、体が言うことを聞かない。
「私と彼の契約を邪魔しないで貰えますか? ふふっ、人間はつくづく哀れだ。力も何も持たないのに、何が理解できるのか……傷は簡単に癒えない。子供一人が認めたところで、何もならない」
「それは貴方も一緒でしょう!? たかが悪魔一人で何ができるって言うの?」
「彼は私が与える愛に溺れているんですよ。今も彼に幸せな夢を見せています。貴方如きが認めたところで……他の人間が変わるわけではない」
幸せな夢など、それこそ彼のためにならない。現実に絶望し、夢に頼りきりになり、戻れなくなるだけの話だ。
どうにかして悪魔を止めなければならないのに、今のリーベに思いつく策はなかった。悪魔はしばらくスィエルの頭を撫でていたが、頭がカクリと動いたところで、ふっと笑みを見せた。
「ああ……スィエルが本当に寝てしまいました。立ちながら寝るとは器用な事だ。さて、もうそろそろ帰るとしましょうかね」
悪魔は元の靄の姿に戻り、スィエルの体をふわりと浮かせる。本当に可愛がっているというのは分かるのに、リーベにはその好意が恐ろしいと感じる。
――それは愛ではなく束縛なのではないか、と。
人間が嫌いだと言った悪魔が、どうしてそんなにスィエルを溺愛するのか。どうしてそんなに他の人間とは違った扱いをするのか。
「貴方は絶対に離しませんよ、スィエル」
異常とも思える執着。いったいあの悪魔は、裏に何を抱えているのだろうか。
人間によって傷つけられた青年と悪魔は、呻くリーベの前で夜闇に消える。残された少女を嘲笑うように、一陣の風が吹いた。
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