焦げた木の臭い。燃え広がる炎。退路を失った人々が、呆然として立ち尽くす様。
――あの時と、同じ街の惨状。
「あぁ、スィエル……来てくれたんですね」
返り血に塗れた端正な顔。いつもと姿も顔も違うのに、何故か悪魔であることはすぐに分かった。スィエルは黙って頷き、一歩、一歩と血の池を踏みしめる。
「ふふっ……スィエル。久しぶりの街の景色はいかがですか?」
「……」
「あぁ、その顔は……想像以上に酷い、といったところでしょうか。少し燃やしすぎましたかねぇ? でも……貴方のことを思っている人なんて、どこにもいない。だから、他は全部消してしまいましょう?」
甘い誘惑が、スィエルの心の奥深くにじゅくじゅくと染み込んでいく。弱点は知り尽くしたとでも言うように、騙し、壊し、弄んで。
「全部……壊す……」
「えぇ。貴方がここに来たのも、抑えきれない欲望を発散するためでしょう? 大丈夫、終わったら沢山愛してあげます」
悪魔に与えられる幻は恐ろしい。だが、それがないと、生きられない。偽りを欲して、嘘に喘いで、罪に身を投じる事をやめられない。
剣を引き抜き、怯える子供と母親の元にスィエルは駆けた。助けるためではない。己の欲望に従うために。
「この子だけは……殺さないで」
「嫌……嫌だよ……!!」
幼く、可愛らしい容姿の少女の手に、母親の手が添えられる。自分が奪われた親子の姿が、どうしようもなく辛かった。
「黙れ」
母親を突き飛ばし、子供の首を乱暴に掴んで、地面に何度も叩きつける。自分がおかしな事をしている自覚はあった。酷いことをしている自覚も、このままでは無辜の人々を殺してしまうことも。
でも。
「あぁ……あああぁぁぁ!!」
「ふふっ、スィエル……目の前に幸せがあって、それを奪いたいって、貴方の心が叫んでいます。さぁ、その欲望をもっと高めて。子供の首を折ることぐらい、容易いでしょう?」
「悪魔……私は……私は……」
「混乱しているようですね。でも、貴方を突き動かしているのは、誰でもない、貴方自身なのですよ。貴方がこの少女の命を奪いたい。そう思ったから、貴方は何度も少女の体を地面に叩きつけた」
「やめて!! 奪うなら私の命にして……この子はまだ将来があるの。貴方のような化け物に、この子の未来を奪われたくない!!」
その返答は、僅かな風切り音と、くずおれる二つの生贄。
「あ……ああ……」
声にならない言葉を漏らし、 へたり込むスィエルの前で、エルシャは少女の体から流れ続ける血を指ですくって舐め取る。
「ふふっ、味が悪くなっていますよ。スィエル。殺すのに迷うだなんて、血の鮮度を下げてしまうでしょう? だから、私が手を下してあげました」
口を強引に開けられ、悪魔の手が舌の上で踊る。錆びた鉄の臭いが口全体に広がり、気持ち悪さで吐きそうになる。
「あぁ……罪悪感と背徳感に苦しむ貴方の顔は、いつ見ても飽きませんね。でも、一方でこうも感じているはずです……もっと味わっていたい、この苦味を、痛みを、嘆きを知りたいと」
悪魔の手が引き抜かれた後も、ぬるりとした感触は舌にへばりついている。それは、気が狂いそうなほど不快なはずなのに。なぜか、全身が乾くような錯覚に襲われる。
「悪魔、次の標的を探せ」
自然に、そんな言葉が口から溢れる。
「殺せ。一人残らず、手中に収めろ。あの日の災いよりもより激しく、残虐に。子供だろうと容赦はするな。いずれ成長すれば赤目の人々を傷つける」
壊れた操り人形のようなぎこちない動きで、スィエルはおもむろに立ち上がった。朝日が昇れば、城に帰る――それが、今までの決めごとだった。少なくとも、スィエルの心の中では、夜のみしか戦わないと決めていた。
それは、夜が特別な時間だったから。朝になれば、自由は奪われ、檻に入れられた哀れな子供になる。最低限の食事を取り、術式を勉強し、外に出ることも許されず、ただひたすらに国のために知識を積み上げるだけの奴隷になる。
だが、夜は自由だった。檻の中に誰も入ってこない。食べ物は、自分で転移術式を覚えて持ってきた。術式の勉強はなく、夜間の見回りの人間に自分の分身を憑依させ、館内を見て回るということもした。
だから、決めていた。他の人間が出歩く朝は出ずに、日陰者の自分が自由に暮らせる夜に、街に出ようと。
実際に、未だにセーツェンに差別の文化が存在することは知っていた。だから、人と出会うことが多い朝や昼は、出来るだけ出ない方が賢明だろうと思っていたのだ。だが、もう日は昇り始めている。この災禍はきっと、止まらない。
そのときだった。
暴風は広がりつつあった火を一瞬で消し、更に勢いを強めていく。
「な……なんだこれは」
「まさか、あの方が……」
「あの方って、知っているのか」
悪魔の口が僅かに動くが、轟音にかき消されてスィエルの所までは届かない。竜巻の中に、うっすらと見える影は大きく、高い。悪魔が知っているということは、悪魔の仲間なのだろうかとスィエルは想像した。
風が収まった後に現れたのは、金色の瞳と白髪が特徴的な美麗な男。腰には長剣が差されているが、抜く必要はなさそうに見える。
「ロゼ様……どうしてこんな所に……」
流石の悪魔も動揺を隠せずに、声が掠れる。いつも笑みを隠さず、余裕を保っている姿しか見てこなかったスィエルにとっては、驚くべきものだった。
「随分お楽しみのようだな――」
「ロゼ様、私の名をこの者の前で呼ばないで下さい」
「ほう、それは何故だ?」
「名など、名乗るものでもありません。それに……」
「分かった。それなら控えよう。スィエル・キース……私の部下が失礼を。そこで見ているといい」
和やかな雰囲気から一転し、悪魔の首に棘のようなものが何本も突き刺さる。
「ッ……ロゼ様……」
「私より力を持ってはいけない、そう言っているはずだが」
「ですが……私は……」
「言い訳はよせ。これは罰だ」
ロゼの金色の瞳が鈍く光り、棘からまばゆい緋色の光が放たれる。悪魔は苦悶に満ちた表情を浮かべるが、ロゼからの拷問が止まる気配はない。怒りではない。憐れみでもない。その目には、興味だけがある。
逆らうことは許されない、絶対的な関係。支配と隷属が逆転することはなく、権力者は更に上位の存在に支配される。
「流石は強欲の悪魔、といった所か。随分魔力を吸ったようだな。私の目につかぬように暴れたのならば、放っていたものを」
「お前は一体何者なんだ。悪魔に何をした」
「名乗りが遅れたことは謝ろう。私は、ロゼ・ヴァレンティーン。魔界の支配権を有しており、傲慢の罪を司っている。お前の大事な子分は、眠っているだけだ。安心するがいい」
「随分と深く眠っているようだが……本当に大丈夫なんだろうな」
「ああ。私の目を見た者は、大体力を失って倒れる」
いつものことだ、とロゼは呟く。
「それより、貴様がスィエルか。魔力の匂いも悪くない。虜になるわけだ」
一人で納得するロゼに、スィエルはため息を隠せない。どうせなら、人間に好かれたかった。そんなスィエルの内心を知ってか知らずか、ロゼはスィエルの耳元に甘い囁きを施す。
「どうだ、私と取引しないか。私にお前の血を少し分けて欲しい。代わりに、私に命令する権利をやろう」
「わけてほしい……って、勝手に飲めばいいだろ」
「いいのか? では、遠慮なくいただこう。後で私に命ずるものは決めただろうな」
「ああ、もう少しこいつを大人しくさせてくれ。お前が管理者なら尚更頼みたい」
ロゼはふっと笑ったが、そんなことはどうでもよかった。
「ほう……まぁ、いい。契約者の望みを叶え、その代償として生き血を啜る……その関係が逆転してはいけない。災禍が二人いる、ということはその抑止者もまた二人現れる事になる。面倒なことにならなければいいがな」
「お前が願えと言ったんだろう。嫌みなら隠れて言ってくれ、回りくどくて面倒だ」
「くくっ、嫌みではないさ。気になることがあったから、呟いてみただけだ。では、奪わせてもらおうか」
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