「あの猫と、あの少女……魔眼が二人に、大災禍が二つか」
■■との面会を終えた後、ロゼは歩きながら、一人思考に耽っていた。餌は撒き、人間たちは食いついた頃だろう。そろそろ、何か動かしたい。膠着は、ただ時間を浪費するだけだ。
だが、少しの迷いがロゼを思いとどまらせていた。数百年前に一度ロゼは経験している。そこで出会った人間に手痛く傷を負わされ、暴食の悪魔は散々食った後に二人の魔眼持ちに殺され、ただ失うだけの無益な争いだった事は覚えている。
魔眼が二つ組み合えば、それだけ分脅威となり――最悪、足を一つ失う羽目になる。相手の力は自乗。大災禍の力に掛け合わせはない。そもそも、駒と協力する気などロゼには微塵も存在しないのだが。
魔眼と大災禍の関係は、あまり記録が残されていない。それもそのはずで、まず大災禍が二つ人間界に関わることが最初の条件。そして、魔眼持ちのもう一つの因子――黒猫が現れることが二つ目の条件だ。
だが、二個目の条件はほぼ必ず満たされる。何を知っているのか、黒猫はどこまでもロゼの後ろを追ってくる。亀に届かぬ矢のように、いつまでも捉えられない的を狙ってくる。だから、一個目の条件を満たさないようにする必要があるのだ。
ロゼは基本的に現に干渉する気はない。興味もなければ、欲もない。人間の事は心底どうでもいいと感じており、現に干渉したのも気紛れに、だ。
街を焼き、人々も惨殺しているのだが……それは単なる戯れでしかない。ロゼにとっては全てが無であり、心を躍らせるものは数少ない。
「だが、エルシャ……お前は、私の興味を唆る」
長い間人間の世界に浸り、狂いに狂ったあの瞳を見れば、笑い飛ばしたくもなるというものだ。
あの駒は、潰されてはならない。もう少し負荷をかけても壊れはしないだろう。いずれは座を奪いに来る事も考えられるほどの魔力。そして、悪意を溜めに溜めた、憎悪の塊。
早く味わいたいが、泳がせるのも悪くはない。未だにあの駒は成長を遂げている。溢れる好奇心と嗜虐心に呑み込まれ、暴走を続けている。
だからロゼは、リスクを承知で人間界に出向いたというわけだ。デメリットを差し引いても、得られる益の方が大きい。そう、判断して。
「エルシャの様子は?」
ずぷん、と鈍った音を立てて現れた灰色の球体に、ロゼは静かに手を触れる。すると、球体は弾け、中から深紅色の結晶が光を纏いながら現れた。
ロゼはそのまま、結晶が映し出す世界を傍観する。
どうやらエルシャは、城の中で主ではないナニカに未だに愛を注いでいるらしい。動かぬままの主を労り、食事などをさせているようだ。甲斐甲斐しく世話を焼き、主に一心に尽くそうとするその様は、哀れだという他ないだろう。
裏切られ、見棄てられ、その上殺されようとしていると知れば……彼は、どのように壊れてくれるのか。双方のピースが上手く噛み合い、崩れるように仕向ける。それが、ロゼのやり方だ。
もっと壊してやろう。無にしてやろう。感情を無にしたロゼに、微かに咲いた悪意。
日頃が "0" であるが故に――ほんの少しでも有れば、強力な毒になる。
脳を満たす甘い蜜は、ロゼの思考能力を奪っていく。だから、いつもは封じているのだ。箍が外れてしまっては――止められないから。
「壊れたものを壊しても、壊れた事にはならない……サァ、どこまで耐えられるかな」
金色の瞳の奥深く。カチリ、と乾いた音がした。
*
「それで、あの悪魔についてだが……」
「ああ、本当に何も無いな……」
「資料に書かれている言葉もよく分からないし」
「ロゼが残したヒントはこれだけか。あいつ、今までこんなことなかったからな」
はああぁぁぁ、と大音量のため息がほぼ同時にかまされ、元々落ち込んでいた雰囲気はより一層悪化する。
唸る三人。加えて一匹。大量の本に囲まれながら資料とにらめっこを続けるも、得られた情報は数少ないものだった。
この本の山に囲まれてはや数日。
毎日のように足を運んでは呪文のような古代文書を読み解いているが、未だ目立った進展はない。
だが、ロゼについて掘れた情報は多かった。記録も数多く残っており、各地の被害や犠牲者が淡々と書き連ねられている。
「厄災の化身だな……」
思わずアルトの口から溢れた恨み節に、全員が頷く。あらゆる災いを造り出し、試練を与える目的は一体何なのか。聞くは良いにしても、正確な情報が得られるとは到底思えない。
「もしかしたら、鍵を与える気などないのかもしれないな……ただ単に、遊びたかっただけなのか」
「いや……奴は必ず、最悪の事態を引き起こしに来る。何かを企んでいるのを隠して、うまく振る舞っているんだ」
「そうね……もう少し探したいところだけど、疲れてきちゃったし。もうそろそろ日も暮れそう」
リーベは思いきり伸びをする。ここ数時間、ずっと小さな文字に目を通していたので肩も凝ってしまったようだ。少し休憩がてら外に行き、新鮮な空気を吸ってきた方が良いかもしれない。そう考え、本を閉じたとき。
「……? ねぇ、これ……」
見つけたのは、不自然に重なる二枚のページ。全て確認したと思っていたのだが、どうやら見落としたところがあったらしい。
よく見ると糊がへばり付いているようで、簡単には開きそうにない。力ずくで剥がせないこともないだろうが、それでは紙が破れてしまう恐れもある。ビリッと下手に破って後から管理人に咎められるのはごめんだ。請求が来れば、もっと恐ろしい。
「貸してみろ、こういうのは炎術と風術でどうにでもなる」
アルトが指の上にごく僅かな量のリソースを使い、赤色と黄緑色の球体を生み出す。それらをうまく組み合わせ、一つにより合わせ――弾けた光が消えると、糊のベタつきは無くなっていた。
「さっきまでこんなのあった覚えがないんだけど……」
「疲れて見落としたのかもな……見つけられて良かったじゃないか。ほら、ここにも紋章が刻まれている。調べてみる価値はありそうだな」
「うーん、ちょっとこれ読むのはきついから、アルトさん! お願いします!」
「仕方ねぇなぁ。貸してみろ」
あまりの長時間労働に音を上げたリーベに代わってアルトが本を手に取り、内容を読み解いていく。古びた紙にはこれでもかと隙間なく文字が書き連ねられており、読むにも一苦労しそうだ。
紋章の意味。並べられた古代言語が示すもの。そして隠された謎の正体――。
徐々に暴かれる真相。これ以上は知るべきではない。心の中を煽る何か。揺さぶる何か。
だが、それでも解かなければ。
額を滑り落ちる脂汗。急速に冷えていく脳内。
これが真実ならば、全てが仕組まれている。
そう、アルトは直感した。
「スィエル……来てみろ。少なくとも、お前さんは知るべきだ」
資料から顔を上げたアルトの表情は険しく、眉間には深い皺がくっきりと寄っている。声色も先程と比べて明らかに冷たい。
「どうしたんだ……? 顔色が悪いぞ」
「これを見れば血の気も引く。いいから早く読め」
考古学を専門とするアルト。膨大な知識を城に幽閉された期間に蓄えたスィエル。その二人が、読み解いたものは。
《シェカチーフの挽歌》
――被疑者 エルシャ・ファストル
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