「ふふ、これ以上話していてもあの方に怒られそうだ。無駄話はここまでにしましょう」
「待て、エルシャ!」
だが、その言葉が届くより前に、エルシャの触手がうねり、一瞬のうちに距離を詰めた。速い。感覚を研ぎ澄まし、針の糸を通すタイミングで受けるが、それでも細剣一本で受けるには無理がある。
相手は人間ではない。隙を見せれば殺される。
頬や髪に攻撃が当たるのは無視して、致命傷になり得るものだけを読み続ける。
右、左、一瞬置いてまた左。
じりじりと削られていく集中力。
――耐えろ。
重心を落すために足を横に引く。
右手を前に出し、指先に意識を注ぐ。
「ヴァン・ラーミナ!」
即座に風術を詠唱し、触手を斬り落とそうと挑むが、斬っても斬っても嘲笑うように生えてくる。埒が明かない。意識を離した瞬間をエルシャが逃すはずもなく、強烈な一撃がスィエルの細剣を弾いた。
「くっ……」
「ふふ、面白いでしょう? どんな攻撃を受けてもどんどん生えてくるんです」
触手を狙ったところで無限に増殖するのであれば、狙うのは本体。しかし、本体を狙うにも触手が盾になり、まともに戦うのは難しい。ならば――。
「エルシャ。お前の主は今どこにいる」
「ロゼ様の所在ですか? さぁ……あの方は忙しいお方で……ッ!!」
支配者に頭を垂れるエルシャ。注意をそらすには、意識を強引に向けてやればいい。隙を狙って連続技を叩き込み、スィエルは触手を一本に縛る。
「ぐぅっ……」
エルシャの呻きに耳を貸すことなく、スィエルは幻術の詠唱を始める。触手を縛ったのはあくまで一時的な拘束だ。気休め程度にしかならないのは承知の上。弱体化によって更に時間を稼ぎ、突破口を切り開く。
「私は……ロゼ様に認められて大災禍になった。強くなるためにあらゆる犠牲を払った。あの方は将来を見据えている。あの方のために私は……」
「ロゼのことはどうでもいい!! 今は自分のことを考えろ。自分が今何をしているのか、今何が欲しいのか……それだけを考えろ!!」
「う、うあ……あ……があっ……」
迷うエルシャ。確実に効いている。
このまま押し切れば――。
「愚かな」
「……!!」
それは、無の殺気とでも言うべきものか。
一瞬、脳裏に駆けた予感。それが全身に行き渡るより早く、感覚的なもので足が地を蹴る。
黒い閃光が目の前に瞬く。圧縮された熱量が一気に開放される。何が起こったのか分からないまま、スィエルはその場に片膝をついた。
パン、と乾いた拍手が鳴り、閉じられた世界に新たな脅威が加わる。純白の衣を纏い、だが心は泥のように濁る。多くの人間を惑わせ、新たな犠牲を増やし続ける大災禍の主――。
「くくっ、その程度の叫びで私の呪いが解けると思っているのか? 呆れた奴め」
「ロゼ……」
「あぁ……こんなに悶えて……可哀想、とでも言うのだったか。人間は迷うことが好きなのだな」
可哀想、という言葉に、哀れみはない。傍から眺めるだけで、ロゼは何も手を貸さない。彼は、悶え苦しんでいるのをただ眺めることが好きなのだから。膝から崩れ落ちるエルシャを一瞥し、語りかける。
「エルシャ……無の世界で一旦休むといい。脳の疲労が深刻だ」
「ロゼ様、私はまだ戦えます!! ですから……」
「私の手をこれ以上煩わせる気か? 人の戯言に揺らぎ、迷い、剣を捨てようとさえするとは……看過できぬ愚行だ」
ばっさりと言い切られ、更に落ち込むエルシャ。先ほどまではあれほど勢いよくうねっていた触手達も、だらんと垂れ下がってしまっている。
「休め。私にはお前達が必要なのだから」
「……お気遣い、痛み入ります」
悔しそうに歯噛みしながら、エルシャは戦場から身を引く。代わりに残ったロゼは、目を伏せて静かに息を吐いた。
「同情したのか?」
「まさか。大災禍が二人になると厄介な問題が起こる。私に情などないのは分かっているだろう? 今のまま錯乱状態では何も得るものはない。悪意にじっくりと漬け込めばじきに回復するだろう」
「お前の目的は何なんだ。何が楽しい」
「さぁ。私もこのところ分からなくてな。何も楽しくなければ、目的もない。ただの空虚な存在だ」
ロゼはふふ、と笑みをこぼす。
この笑みも、恐らく偽物なのだろう。
ぞっとするほど美しく、整えられた相貌。
煌めく光を閉じ込めたかのような黄金色の瞳。
純白の衣に染み付いた血痕。
胸の奥深くに隠された本心。
そして――尽きることのない、莫大な量の悪意。
ロゼは、未だ謎多き存在だ。この際現れたのは、いい機会だと思ったほうがいいだろう。
「お前には聞きたいことが幾つもあるんだ」
「ふ、そうか。対価として血を捧げるなら聞いてやろう」
どこまでも傲慢な悪魔だと思うが、そういえば自分で驕り高ぶる者だと言っていたか。腕を噛み切り、血を絞る。滴り落ちる血に、僅かに輝く金の瞳。やはり、目の前の餌には抗えないらしい。
「ほぅ……面白い。自ら腕を傷つけ、血を差し出すとはな。戴こう」
ロゼが手を横に薙ぐと、滴り落ちる血が一瞬のうちに結晶化し、宙に向かって寄り集まる。出来た結晶を指で摘み、口の中に放り込んだ。
「若干、舌触りが悪くなっているな……狂気に溺れていたお前の血は、大層美味だったが」
「褒めになってない。悪くて結構だ」
嘲笑を浮かべるロゼを前に、スィエルは本題を切り出す。
「ロゼ……もう、エルシャに関わらないでくれ」
「関わるな、か……それは、どういう意図で言っている? 彼は私の駒であり所有物だ。そもそも、今の彼をお前たちが扱えるとは思えない。彼らは日々悪意を呑み込んでいる。だから徐々に狂っていく。壊れていく。意識が朦朧となり、自分が誰なのかすらもわからなくなっていく」
「更なる嘆きを。更なる叫びを……ただそれだけを求めて、あらゆるものを破壊する。悪意に浸かり、それを余すことなく食い尽くした者が――大災禍となるのだ」
大災禍。それは、世界の七つの負を全て集めた諸悪の権化。
その頂点に立つ、傲慢の悪魔。今ここで息の根を止めてしまえば――。彼は。エルシャは、救われるのだろうか。
短絡的な考えではあるだろうが、そもそもロゼはあまり姿を現すことはない。
このチャンスを逃せば、今度はいつ出会うのかすら掴めない。
抜剣。そして、重心を落とし、剣先に意識を高める。ロゼの眉が僅かにひそめられ、笑みが消える。
「ふふ……あぁ、私に剣を向けるか……いいな。とてもいい。その殺意こそ、私が最も好む物だ」
スィエルの足が地を蹴った瞬間、ロゼの身体の周りには粘度のある暗赤色の壁が生成され、細剣もろとも壁の中に引きずり込まれる。
「なんだこれは……ッ!!」
「私が殺した者の血で生成した壁だ。よく出来ているだろう? 奪うこと、満たすことを優先するように設計してある」
ゼリー状の壁に囚われて、逃げ出すことも、破壊のために剣を取り出すことも叶わない。
ロゼの瞳は、徐々に凍っていく。逃げ出せない小動物を見る、獅子のように。
「その欲望に身を委ねてしまえば、すぐに楽になる。悩むことはない。ただ、奪えば良いのだから」
「誰がそんな真似を!!」
「くくっ……あぁ。非力な人間を一方的にいたぶるのは楽しくて仕方がない。長らく無意味な世界に飽いていたが……やはり、私は悪意に染まる方が好きだ」
ロゼの瞳は、いつの間にか黄金の輝きを失い、鈍く暗く堕ちている。何をすればここまで狂うのか。何を抱えてここまで足を踏み外してしまったのか。そもそも、彼は悪魔だから人間とは違うのか。
ロゼ・ヴァレンティーン。全てを呑み込み、多くの人間を殺め、更なる力を求めて暴走を続ける。
どうすれば、この脅威を止められるのか。
分からない。分からないが、何か手がかりを掴めれば――。
「はは、ははは……あぁ、まだ足りない。私を満足させるにはまだ足りない。狂気を、怒りを、苦しみを……私は求めたいんだ」
恍惚とした表情で、更なる欲望を語るロゼ。囚われている人間を見て、少しだけ感情が昂ぶっているのだろう。
彼は油断している。今が、機会だ。
「お前は……どうして、そこまで壊れてしまったんだ」
「壊れた? どういうことだ。私は壊れてなどいない。狂気に溺れ、悪意を吸収し続ける……負の厄災だ」
「お前には、目的もない。自分もない。何もない……私には、どこまでも空っぽに見える」
スィエルは感じていた。ロゼの中に巣くう「虚無」を。無が生み出す悍ましさを。
ロゼは、感情を持たない。自我を持たない。何も持たずに、異常な使命感に駆られて破壊を続けている。
命じられたのか。彼も被害者なのか。
それはずっと考えていた。しかし、彼が被害者であるようには見えない。命じられる、というよりもそれは――誰かの遺志を受け継いでいるかのような。
そんな、直感があった。
「お前を造った人も、殺したのか」
「……」
ずぶん、と鈍い音が響き、体が開放される。あまりの動揺に、拘束を解いたのだ。
だが、それをロゼは表向きには出さない。上手に取り繕い、平常を装っている。
「人? 私は、大災禍の頂点に在る者だ。人間を憎む私が、人を主に持つなどあり得ない。極限まで利用し、潰し、そうして最後には枯れ果てた命を喰らう。今まで何人もの贄を……私は喰らってきた」
「何か隠している事が、あるんじゃないのか。ずっと溜め込んで、苦しくて、もがき続けているんじゃないのか」
人の事を伺い、生きてきた。赤目であることを馬鹿にされ、自分の素性も隠し、誰にも愛されずに生きてきた。
その孤独は、痛みは、嫌というほど味わってきた。だから分かる。だから知りたい。壊れてしまった歯車を、元に戻したい。
「なぁ、教えてくれ。大災禍だからと閉じ込めないでくれ」
「……隠している事は、山のようにある。大災禍たちにも、恐らくは自分にも」
ロゼは、宙を見つめる。そこには、暗く、黒で塗りつぶされた天井があるだけだ。
「記憶ももう朧げにしかない。思い出も、理想も、全て夢の中。今更、何かを教えるほど残っているものもない。悪意を呑み込むために生まれた私は、本来の役目を超過してしまった」
「じゃあ、造ればいいじゃないか。また、一から始めれば。まだやり直しは効く。効くんだよ……」
だが、ロゼは頷かない。口を閉ざし、心を閉ざし、そうしてまた――無へと帰ってしまう。
淡い光に包まれ、足先から溶けて消えてしまう。
「ロゼ……ロゼ!!」
「やり直し、か。人間は生き返らない。私の喪失はそう簡単には埋められない」
きらり、と光ったのは透明な雫。つう、と雫はロゼの頬を流れ、消えていく。
泣いているのか。あれほど人々を手にかけてもなお動かなかった表情が、今や悲しそうに歪められている。
「あぁ――――。私は、どうすればいい?」
彼は、どこに何を置いてきてしまったのか。
無の支配者が一瞬見せた感情。迷い、惑った、紛い物。
それを掴みきれぬまま、スィエルは呻いた。
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