「それがお前の本当の姿なのか」
「いいえ、本当の私はもっと醜く汚らしい化け物ですよ……まぁ、コレが美しいとも思いませんがね。あくまでも力を一つ開放したに過ぎません」
「……そうか。なら、まだ本領発揮……というわけではないんだな?」
「ふふっ、スィエルの体を借りていても満足に楽しめませんから」
うっそりと笑うエルシャ。悪魔は強大な力を持つが、制約ももちろんある。その一つが人に化けた状態では、力をそれほど発揮できないということだ。半魔の姿になれば、人型の状態よりも数倍近い力を出すことができる。全身を黒衣に包み、胸元にはワインレッドのリボンが飾られている。
一見すれば優雅な立ち姿だが、服を纏う主はそんなことを微塵も考えていない。優雅だろうが、汚かろうが、血にまみれてしまえば全部一緒だ。
「巫山戯るのもいいかげんにしろ!」
邪魔者は、早めに殺すに限る。三十人以上いたはずのアルトの仲間は、既にその手数を三分の一に減らしていた。だが、エルシャの追撃は続く。ガラス窓を派手に破壊し、街路樹も真っ二つにするほどの暴風を叩きつけた。
「あぁ……アルト・フォーケハウト。貴方は確かに強い。でも、仲間もそうとは限らなかったようですね」
殺せ。奪え。呪いのような命令が、エルシャの脳を駆け巡る。血に飢えた体は、貪欲に力を吸収し、さらなる高みへと誘う。
全身に傷を負ったアルトの体に長剣を刺し、じわりじわりと傾けていく。溢れる紅は、果実のように甘く、芳しい香りを放ち、エルシャの嗜虐心は更にそそられた。
だが、単に殺すだけでは物足りない。スィエルに人間の愛情など余計なことを教えた罪はしっかりと償ってもらわなければ。そのためには、嬲り殺し、何度でも蘇生をさせ、生と死の狭間で藻掻いてもらおう。
「あはっ……あはははっ……どうです? 痛み続けるというのも苦しいでしょう? その苦しみこそが、私が求めるもの。想像を絶するほどの痛みでも、まだ啼く余裕があるなんて……何度弄んでも、何度虐めても、何度誘っても、貴方は壊れずに耐えてくれる……」
あぁ、美味しいとエルシャは頬についた返り血を舐め取る。流石は最強の魔術師だ。桁違いの魔力が血の中に含まれている。とろりと苦みを含んだ極上の美酒は悪魔の脳内に深く響き、身を奮わすほどの快感を与えた。
うわごとを呟きながら、エルシャは虚ろな目を輝かせる。飲んでも飲んでも溢れ出る鮮血が、抑えられぬ欲望を刺激しているのだ。今この場に下級の魔物達がいたならば、間違いなくアルトは骨の髄まで味わい尽くされていただろう。
「貴方を愛しても構いませんよ? 愛して、愛して、闇に塗り替えてしまったら、希望を奪われた街の人々は、嘆いてくれるでしょうから」
「俺は……お前なんかに負け……があっ!!」
「ふふっ、敵を死ぬ直前まで追い詰めるのは楽しいですね。貴方はただ黙って私の遊び相手になればいいんですよ。それとも、スィエルのように洗脳してあげましょうか? あぁ、それもいいかもしれませんね。悪意をたっぷりと呑み込んでしまえば、痛みを味わうこともないのだから」
実際に殺してしまえば、例えエルシャであっても蘇生は不可能だ。再構築が可能なのは、傲慢の悪魔であるロゼただ一人のみ。だから、殺しはしない。その代わりに、死よりも耐えがたい苦痛を送り続ける。
エルシャの深い青と美しい紫の髪は、紅く塗りつぶされていた。それだけではない。血の気を失った青白い肌にも、夥しい量の血痕が付着している。それでも、まだエルシャの手は止まらない。血に飢えた獣の暴走は終わらない。
エルシャは人間が嫌いだ。しかし、同じように人の道を外れてしまった人間ならば愛せる。
人ではなくなった人でなしが、行く場所などどこにもない。長い旅の果てに辿り着いたのが、堕ちたものの集まりである魔界だった。
救いのない、闇だけが広がる世界でも、エルシャにとっては心地が良かった。居場所がある、それだけでも救われた気がした。ロゼに気に入られ、大災禍の一員になってからも、エルシャは毎日欠かさずに他の悪魔たちと会うことにしていたのだ。
人間はエルシャから大事なものを奪った。その喪失が拭えないまま、エルシャは復讐を選んだ。堕ちて、大災禍の一員になって、そうすれば、人間に接触する機会も増える。
スィエルに取り憑いてからも、その考えは頭にあった。だから、意志と記憶、人格さえも変えてしまうほど、強大な力を注ぎ込んだ。
彼が復讐を恐れていることも知っている。本当は人間との融和を願っていることも知っている。それでも、一度結んだ契約は解かれることはない。
悪魔との誓いは、呪いだ。主を縛り付け、終わりのない闇が前に広がるだけ。救いのない、孤独な世界が待つのみだ。
安寧と倦怠が広がる、無限の世界に主を引きずり込み、愛という名の狂気で支配する――。どれだけ否定されようとも、その企みが消えるわけではない。
「悪魔……俺以外に手を出すな。他の人にはなんの罪もない」
「あぁ、そんな馬鹿げた提案が出来なくなるぐらい、ずっと貴方を殺し続けていたい」
唇から漏れたエルシャの本心に、アルトは身を強張らせる。もう何度刺したのか、何度殺したのかも分からない。炎に包まれる街の熱気を感じながら、ただ、敵の腹部に向かって刃を振り下ろす。
「やめなさい!」
「……増援にしては、数が少ないですね。たった一人ですか」
突如現れた藍色の髪を持つ少女に、エルシャの関心は移る。邪魔だとは思わなかった。それよりも、なぜわざわざ殺されに来るのかという興味があった。
「貴方、凄く悲しそうな目をしてる。心も、凄く濁っているし、何よりも底が見えないほど暗い……ねぇ、教えて。貴方は一体何者なの? 貴方の心は、どうしてしまったの?」
「さぁ、何故でしょう。親しくもないのに、そこまで話す気にはなりませんね」
「ゼルレニーナ・ルレア。長いから皆ゼルって呼んでる。名乗らなくても、貴方は私の事を知っているはずだけど」
「えぇ、知っていますよ。でも、直接会ったのは初めてでしょう? 丸腰で何をしに来たのかと思えば……なるほど、自分の力に多少なりとも自信があるようだ」
少女の目に複雑な模様が描かれているのを見て、エルシャは納得した。彼女は、真実を曝く目――魔眼の持ち主だ。数は少なくとも、大災禍が現れる地域にはごく一定の確率で、現れると聞く。それが世界の理というものなのか、単なる偶然か。
何にせよ、魔の対抗勢力であることに変わりはない。
「貴方の過去を見て、貴方がどうしてそんな残虐な心を持ってしまったのか知りたかった。そうしたら、リーベを唆した理由も分かるんじゃないかって。何でも見えてしまうこの目が占いを始めるまでは憎くて仕方なかったけど……でも、これで貴方を救えるなら」
「過去を知ったところで、何もならない。一体何に希望を抱いているのでしょう」
「そう言わないで、私の話を聞いて!!」
少女の叫びを、エルシャは黙って遮った。両者の間には氷の柱がそそり立ち、冷たい現実を突きつける。
「……ッ!」
「過去を見ても、私の心は壊れたまま。何も変わりはしない」
「貴方は、拒絶している。その中には、人間に対しての怯えも」
「怯え? 私は、怯えるものなどありませんよ。力を持っていながら、何に怯える必要があるのです?」
「貴方の力は偽物よ。本当の貴方は、とても弱い」
エルシャの心を、少女は裸足で踏んでいく。そこに、多くの毒が敷かれていることも知らずに。真っ直ぐに見つめ返す少女の目に、曇りはない。それが、エルシャにとってはどうしようもなく羨ましかった。
――皆、堕ちてしまえばいいのに。
一歩、また一歩。短調で感情のない靴音が、空気を震わす。全部奪ってしまえば、心に渦巻く黒い感情は消えてくれるだろうか。ゆらりと蠢く殺気はみるみるうちに膨れ上がっていく。
「私を占えば、どんな結果が出るのでしょうね? 教えてください。飽きるほど長く苦しみ続けている私の未来を……」
エルシャは笑みを浮かべたまま、ずぶり、ずぶりと少女の体に毒を這わせる。そしてそのまま、膨大な情報を、小さな器の中に押し込む。濁流のように押し寄せる悪意と憎しみに、少女は呻き、泣き叫ぶ。
「さぁ……耐えられるでしょうか。とても、貴方に見せられるような内容ではないと思いますが」
「あ……ああぁぁぁぁ!!」
「あはっ……そのまま壊れてしまえばいい。私の悪意に呑まれ、堕ちてしまえ!!」
少女の首に力を込め、エルシャは吼えた。理解できるなど、思わない。この苦しみは、誰にも分からない。
誰も寄せ付けないように、力で壁を作って。二人で、あの孤城に籠もって。
それで、良かったのに。
圧倒的な力を手に入れても、失ったものが戻るわけでもない。砂漠の砂を手で掴めば、簡単に指と指の間から流れていく。それと同じだ。
でも、スィエルは、そんな砂漠に取り残されたひとかけらの宝石だった。心という果てのない砂漠の上に、ぽたりと落とされたその癒やしは、荒んだ心のよりどころになっていた。
彼は、力が欲しいと言った。復讐をしたいと、そう言った。なのに、どうして人間の甘い誘いに乗ってしまうのか。
「これでも、私が正気に戻れると言えますか?」
「ゼル……! やめろ!! 奴に言葉は通じない」
瀕死の状態にありながら、まだ他人の心配をするアルトに、エルシャは酷薄な笑みを浮かべる。
「貴方は黙っていてください。あとでたっぷりと遊んであげますから」
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