特大のため息を溢すアルトと、渋い顔のままのスィエル。その後に会話はない。二人が呑んだグラスが間に置かれ、コトリと小さな音を立てる以外には無音の膠着が続いていた。
日付が変わる頃、急にドアがノックされる音が聞こえたため開けてみれば、スィエルがずぶ濡れで立っていたのだ。瞳には元気がなく、足元もおぼつかない状態だったため、しばらく寝かせていたのだが。
それからしばらく経ち、スィエルが目覚めたあとに事情を聞くと、「悪魔のところから逃げ出してきた」と語り、強めの酒を何杯も飲んでいる。
「悪魔から逃げ出してきたって……どうやって」
「身代わりを使ったんだ。私の気配が消えれば、あの悪魔は血眼になってでも探すから。あまり貴様を頼りたくはなかったが……仕方がない」
「お前なぁ、人に物を頼む態度ってのがあるだろ」
「三百年も城に閉じ込められ、その子孫が今目の前にいると考えるだけで嫌なんだ」
「かと言って自分で解決できる問題でもない。嫌々でも俺を頼るしかない。大体、お前を閉じ込めたのは俺の先代であって俺じゃないんだぞ?」
「……分かっている」
それを最後に、スィエルはずっと黙り込んだままだ。復讐をやめ、悪魔の手から逃れて、色々と思うところがあったのだろう。
組まれた手に被せられた手袋には、血の痕が幾つも残っている。スィエルが民を殺したのは事実であり、変えようのない過去だ。
復讐者として名を馳せ、恨まれ、憎まれ。銀色の髪に数多の犠牲を塗り込んで。己が持つ赤い瞳を疎み続けて、スィエルは三百年の時を過ごした。
それが、どれほどの傷を残したのか分かったから、リーベもアルトもこうして彼の話を聞いている。
「ちょっと、二人とも喧嘩しないで。一時休戦、ね?」
お茶を用意してくる、といってパタパタと席を外す。実際二人共かなり酔っているはずだが、スィエルに関しては全く表情を崩していない。かなり耐性があるのだろう。
しかし、水分を取るのは必要だ。適当に缶を開け、茶葉を投入。味見はしていないのでどんな味かは知らないが、たまにはこんなものもいいだろう。リーベはカップを手にして席に戻る。
「はい、どうぞ」
「……ありがとう」
「ありがとな」
リーベお手製の謎の茶を喉に通すアルト。しかし、口に合わないのか若干顔が歪む。スィエルは無言で繰り返しカップを傾ける。
「大丈夫か? 顔色が悪い」
「アルトさん、別に無理して飲まなくても」
「正直に言うとこれ以上飲めないんだが……一体何を入れたんだ」
「んー、クアデニの実とエーニの星砂糖、それとハシュの粉がちょっと? 缶にはそう書いてるけど」
「どうりで不味いわけだ……なんで辛い、甘い、酸っぱいを全部入れたのか……く、頭が……」
なら自分で作れと心の中で突っ込みながら、リーベは怖いもの見たさで謎茶を錬成する。適当に混ぜ合わせただけなので確かにおいしさの保証はしていなかったが、何もそこまで言わなくてもいいではないかと思ったのだ。
見た目は美味しそうなのだが、果たして――。
一口。二口。三口目に行く途中で、今まで起きていなかった味覚が一気に覚醒し、三種の味を受け止める。まるでサーカスだ。好き勝手に各々が暴れ出し、全くといっていいほどまとまっていない。これはこれでいけなくもないのかもしれないが、流石に四口目までは飲む気にならずに、リーベはカップを置いた。
「……アルトさん、すみませんでした私が悪かったです」
「だから言っただろ!!」
「私と君たちでは味覚が違うのかな。なかなか面白い組み合わせでハマりそうなんだが……あとで茶葉を貰ってもいいか?」
涼しい顔で飲み続けるスィエル。そういえば、随分前にレモンとミルクと紅茶を混ぜた謎茶を悪魔に出された記憶がある。若干、いや大分味覚が違うのかもしれない。
「あっ、そうよ。悪魔の話をしてたのに随分と脱線しちゃった……ごめんなさい」
「いや、別に構わない。おかげで話を進める気にもなった」
「それで、何か手がかりはあるのか? まさか、何もなしに俺を頼ろうって考えたわけじゃないんだろう?」
「ああ……これだ」
スィエルが懐から取り出したのは、鏡のように磨き上げられた美しい銀色の笛。きらりと輝く笛の魅力に囚われ、思わず手が伸びる。しかし。
「触らない方がいい。私が手にしたときも、何か瘴気のようなものを感じたから。何か良くないものが閉じ込められているみたいだ」
スィエルの紅い瞳が、リーベを制する。瘴気、と聞くと触る気にはならない。大人しく手を引っ込めると、彼の頭が静かに縦に振られた。それでいい、という無言の返事だろうか。
「一体、誰から貰ったんだ」
「それは……ロゼ・ヴァレンティーンから」
その瞬間、アルトの顔が疑念に歪む。身を乗り出し、笛の全体をまじまじと見つめる。
「なんだと? 奴から貰った……? 自分の手下を危険に晒すような事をするのか?」
「私も、彼についてはよく掴めていない部分がある。だが、信じてみたいんだ。頼む、何かこの紋章について知っていることはないか」
「……見たことはある。少し待ってくれ」
アルトは頭をかき、ぶつぶつと何やら独り言を呟いていたが、やがて一つの古びた本を手にして戻ってきた。随分と重そうだ、とリーベは思う。小さな頃からアルト特製のこの書庫で本を読みふけったことはあるが、あれほど大きな本は読んだことがない。
「これにあった気がするんだが……どこだったかなぁ……ああ、見つかった」
「随分と早いな」
「一度読んだ本はどこに何が書いてあったか大体把握しているんだ。その紋章は、今から七百年前……シェチカーフ・イヴェリスの軍章だな。シェチカーフは、国の名前。イヴェリスは集まりの名前といったところか。周りを海に囲まれているが、大陸と続いた場所が一カ所存在し、そこから発展した国……だそうだ」
アルトは壁から地図を剥がし、机の上に広げてみせる。
「ここが、セーツェン。そして、シェカチーフはここだ」
およそ大陸の半分ほどを占める大国の隣に、小さく描かれた国が見られる。そのうちの一つであるようだ。
「意外に小さいんだな……それで、その集まりの情報は?」
「特に目立ったものはないが。三百年も共に過ごして、本当に何も知らないのか?」
「ああ……朧げな記憶と、その笛しか情報はない。私が悪魔の記憶に触れようとすると、はぐらかされるか記憶を消されるかのどちらかだったから」
悲しそうに、スィエルの目が伏せられる。それほどまでして知られたくない過去ならば、尚更曝いてみたい。あの悪魔は何を企んでいるのか。どうしてそこまで堕ちてしまったのか。雑音に塗れた過去の中で一瞬だけ見えた叫びは、今でもよく覚えている。
もがき苦しみながらも、狂気を止めることはなく。虚ろな瞳に想いの全てを閉じ込めて、彼は泥沼の中で溺れてしまった。
心を覗き見ることができるゼルですら、分からなかった過去――それが分かれば。
「うーん……そう、だな……何か特徴とかがあればまだ考えやすいんだが。七百年も前の話だ、辞書では限界がある……」
「なら、市街区の図書館はどう? 第九区にあるはず……」
第九区、レブ地区には世界中から集められた書籍が大量に保存されている。何か調べるには第九区に行け、というのはセーツェンの民ならば常識だ。
とても広いので、目的の本が見つかるのかという不安はある。だが、そこはアルトがどうにかするだろう。探索系の魔術はあったはずだ。
「案内してくれ」
「よし、そうと決まれば出発するか」
読み終わったら、ポイントを付けましょう!