第三区での調査を終え、リーベ達は夜明け前に第一区に到着した。そこから半日ほど眠り、身支度を済ませてアルトの屋敷を出たのは、日が天の半分より右側に傾いた頃だった。
お気に入りのショルダーバッグを肩から提げ、焦げ茶のブーツを履いて、リーベは街へと駆け出す。
今日はあるところに用があったのだが、昨日の疲労が溜まっていたため寝過ぎてしまったのだ。つまるところ、寝坊したというわけである。とはいえ、知り合いでもあり、約束をしていたわけでもないのでそこまで大事ではない。
路地裏の入り組んだ道をくぐり抜け、しゃれた看板をさげた店に辿り着く。コン、コン、と扉を叩き、そばに置かれた鳥のオブジェの頭を思いっきりぶったたく。すると、コーンと鈍い音がオブジェから鳴り、扉の鍵が開く音がした。この鳥は、店の主が飼っている烏がモデルだ。
「やっほー、ゼル!」
「おっ、リーベじゃん」
ゼル――本名、ゼルレニーナ・ルレアは、リーベの親友だ。第一区の路地裏に店を構え、小規模な占いを行っている。
焦げ茶の髪を三つ編みにしており、パステルブルーの石がついたネックレスを首からさげている。目はぱっちりとしており、少々切れ長のリーベは羨ましい。
まだまだ見習いではあるが、腕は確かなので、中心部で店が多い第一区の中でも人気の店だ。
向かい合わせの席に座り、リーベは鞄から一枚の写真を取り出す。長身痩躯の美貌に、とかれた光沢のある長髪。軍帽の下に隠された双眸は、心なしか暗い。
スィエル・キースの調査に同行したリーベだったが、思った以上に第三区での調査が時間がかかりそうだったので、リーベは自分にもできることはないかと探していたのだ。
そこで思い当たったのがこの店で、リーベは第一区に戻ってきたのだった。
「これ、頼まれてた写真。たまたま知り合いが撮ってて貰ってきたよ」
「スィエル……若いんだね。伝承に描かれていたときと変わらないのかな。大体二十歳ぐらいに見える」
「うん……多分、そうだと思う。私が十七だから、あまり変わらないね」
スィエルの表情は暗く、重たい何かを抱えているようにも見える。三百年、命を凍結していたのだろうとアルトは言っていたが、それでも老いというのは何か違うような気がした。
「それで、リーベは私に何を調べてほしいの?」
「ええっと……スィエルの状態を調べてほしいの。水晶術で」
「了解。でも、だいたい結果は見えているけれどね……」
ゼルは机の下から水晶を取り出し、紫の布を引いてから、そっと水晶を乗せる。
そして、小声で術式を唱えると、水晶が光を放った。だが、光はすぐに収まり、ピキという嫌な音が空気を震わせる。思わず二人は沈黙し、重苦しい時間が流れていく。
ゼルはしばらく目を丸くして砕けた水晶を見つめていたが、やがてはっとしたように散らばった破片を集め始めた。
「これは……酷いね。水晶が砕けるなんて相当な凶運だよ。第六区のとある町娘で相当運が悪いって嘆いてた子の運勢を占ったことがあるけど、それで水晶にヒビが入ったぐらいなのに」
「ご、ごめん……! ゼル、その水晶特別なものじゃない!? 先祖代々伝わるものとか、代替品がないとか……」
「大丈夫、すぐ手に入るから心配しないで。それよりも、問題なのはこの占いの結果よ。この人は一体何者なの? こんな悪運、どうやって身につけるの? 死んでいてもおかしくないぐらいなんだけど」
「あ……ああ……そういえば、ゼルには言ってなかったね。この人、悪魔と契約してるの。アルトさんは大災禍の一人だろうって言ってた」
ゼルの手から集めた破片がこぼれ落ち、高い音を立てて砕ける。こいつは何を言っているんだ、といわんばかりの顔だ。
「嘘でしょ? 大災禍なんて、水晶が砕けるどころの騒ぎじゃない……この店が吹き飛ぶぐらいの凶運だよ! あの伝承、街が消し飛ぶなんて誇張しすぎだと思っていたけれど……本当に、彼は三百年前にこの街を火の海にしたんだね」
「そう、だと思う。スィエルは悪魔と契約していて、それで不幸な目に遭っているの。だから、ゼル……貴方に相談に来たの」
「悪魔と契約している人間を、助けることはできない。私は貴方と同学年。同じ学校の学生で、そんなに力を持っている魔法使いでもないんだよ?」
「ううん、別に直接戦ってほしいわけじゃない。私は、スィエルを助ける方法を知りたいの」
「私は反対。スィエルは今も暴れているし、どんな理由があっても、赤目の人たちを許すわけにはいかない。伝承に描かれた赤目の悪魔ならなおさら。悪魔に取り憑かれているって、契約することを選んだのは彼なのに……何を言っているの?」
「でも、スィエルは苦しんでいるの。それに、契約も無理矢理結ばされたのかもしれないじゃない。本当は嫌だったのに、脅されたとか……」
リーベは、ゼルの手を包む。一人では、何も救えない。自分は無力だと分かっていたが、それでも他人事だとは思えなかった。救いたかった。何か力になりたかった。光を探し求めるあの赤い瞳に、リーベは背を向けられなかった。
「あの人は、殺人鬼。冷酷で、無情で、狂気のために人々の命を弄ぶ化け物。彼の赤い目は、血の色。人々が流した血を喰らう悪魔。助けても、スィエルは恩を仇で返す。そうでなければ、故郷を燃やしたりしない」
「ゼル……きっと彼の目を見ればそれが嘘だって分かるはずよ。スィエルは孤独なの。心の中に飢えがあるの。ずっとひとりぼっちで、寒い孤城の中に生きてきたのよ……貴方は対象の過去も覗ける能力を持っていたはず。それで、彼の闇を見てみて」
ゼルはしばらく無言で考え込んでいたが、やがて諦めたようにため息をつくと、術式を詠唱した。独特の発音で成される詠唱は、資格を持つ者のみ許されるため、リーベのような一般人は不可能だ。
何度か詠唱のパターンを変えて試していたが、やがて一つの結論に辿り着いたゼルは、再びため息を漏らした。
「何も……見えない」
「え? どうして?」
「彼の過去を見ても、闇しか広がっていないのよ。どこまでも闇が続いていて、光が見えてこない……」
遅れて、リーベにも景色が見えた。だが、真っ黒に塗りつぶされていて、何も見えない。底なしの闇が無限に広がっているだけだ。
「ちょっと待って、何か声が聞こえる……若い男の人の声に聞こえるけど」
ゼルは唇に指を当て、リーベは頷く。僅かな震動。悪寒。何者かが忍び寄るような嫌な予感。
『ふふっ、スィエルの過去を覗き見するとは……なかなか勇気がおありのようだ』
「悪魔……!!」
『いい反応をありがとうございます。主を守るためならば、私はどこにでも現れますよ。それで? 貴方はスィエルの過去にまで忍び込んで、何を企んでいるのです?』
「別に企んでいない。貴方とは違う。スィエルを、貴方はどうしたの」
『私は彼のために尽くしているだけですよ。彼がいつまでも幸せでいられるように。彼が幸せになれるのなら、何もかもを与えます。それがたとえ、人間の倫理に反することであっても』
悪魔は、淡々と幸せについて語り続ける。彼のために。その一途な思いは、しかし正しく伝えることができていない。
「貴方の幸せの価値観は間違っている。貴方が言う幸せが本当に彼のためになっているのなら、こんなに暗い顔はしないはず」
『……ええ、そうですね。私も、己が歪んでいる自覚はあります。悪魔は、人間の悪意の寄せ集めですから』
「なら、今すぐにやめなさい。貴方の自己満足で、一体どれだけの人達が苦しんだと思っているの」
僅かな沈黙の後に、くくっという笑い声が漏れる。何がそんなにおかしいのか。
『ああ、失礼。本当に人間というものは愚かしい……自覚のなさには辟易とします。貴方達にされた事を返しているだけですよ』
言葉の一つ一つが凍てついており、肌を裂きそうなほどの殺意に溢れている。今リーベ達の前に本物の悪魔が現れたなら、容赦なく首を刎ねていた、というところか。物腰は丁寧なのに、人間への憎悪が留まっていない。
『私は、人間が憎くて仕方ないんです。己のために私たちを使い、不要になれば契約を打ち切る。私がどれだけ尽くしても、人間はいつもそうだ。だから私は奪うのです。これだけ話しても仕方ありませんから、私と彼の関係について、お話しましょう』
「貴方と、スィエルの関係……?」
『ええ、遠い過去の事ですがね』
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