究極術式。それは、発動すらも忌まれる禁忌の術式だ。発動者の命も奪い、破壊しかもたらさない。スィエルが死んでいないということは、何らかの方法で危機を回避しているのだろうが、どのみちまともな方法ではないだろう。
「究極術式だって……? 普通の人じゃ知らないはずだ。あんたはどこで身につけたんだ……?」
「どこで身につけたか……か。昔、覚えるように叩き込まれたとしか言えないな。使う機会は今までで一度しかなかったが、これで二度目だ」
その一度目、というのが伝承の話の事だろう。スィエルは、街を破壊する気でいる――その事実に、額から汗がだくだくと流れ落ちる。
「そんなことをして何になる? セーツェンには、赤目の子供もいるんだぞ!? あんたは、同胞すらも殺したいのか? 違うだろ。赤目以外の人間が憎くて仕方ないんだろ……同じように苦しんでいる赤目の人々も殺すのか」
赤目の子供の事を出すのは、卑怯だとは分かっていた。だが、これ以外に方法はない。
同じ運命を背負わされた子供のことは、スィエルも気にしているだろう。そう踏んで、アデルは賭けに挑んだのだ。
必死の呼びかけに、スィエルの動きがピタリと止まった。目を見開き、唇を戦慄かせ、彫像のように動かない。
「……スィエル?」
答えはない。深紅の双眸の奥には相変わらず闇が佇むだけだ。失敗したか――と、アデルが次の策を考えようとした、その時だった。
「おい! 見つけたぞ!」
怒号と共に、津波のように武器を持った人間達が迫ってくる。スィエルを追いかけていたセーツェン・セルト・フォーリスが、こちらまでやってきたのだ。この人数では、流石に敵わない。絶体絶命だ。
「あぁ、面倒なことだな……行くぞ」
何かを呟いたかと思うと、一瞬で別の場所へと転送される。スィエルが追っ手から逃れるために、アデルも一緒に移動させたのだ。
着地とともに、足元からさくり、という何かを砕いたような音が響く。視線をやると、アデルのブーツには真っ白な雪がこびりついていた。
「雪……? でも、セーツェンでは雪はそんなに降らないはずなのに」
「セーツェンでは、な。だが、ここはセーツェンであってもその最西部だ。例外もあり得ると考えないか」
「最西部……? まさか、ここは第二十七区なのか……?」
伝承の孤城は、セーツェンの一番西側だと聞いたことがある。学校でそれを習ったときに、友人のバカ一人が、歩いていってみようなどと言っていたものだ。
目の前に広がる銀世界は、この世のものとは思えないほど美しく、残酷な輝きを放っていた。深い蒼を後ろに受け、白銀の壁を煌めかせる孤城――三百年間、誰も近づかなかった地という存在が、そう思わせているのだろうとアデルは思う。
「あんた、逃げないって言ってたじゃないか」
「私一人なら全員殺していた。貴様との話が終わっていないから場所を移しただけだ」
「全く……素直じゃないな」
このまま言い合いを続けていても、進展は望めない。アデルはため息をついてから、話を切り出す。
「それで、どうなんだ。赤目の子供も殺したいのか」
「それは、脅しか。私に対しての脅しなのか」
「いや、違う。あんたが街に火を放てば、焼け死ぬ子供達も沢山いる。その中に、赤目の子供が含まれていないとは限らない。もしも死んだら、それはあんたの復讐になるのか。同胞を殺すことも復讐か」
スィエルは何かをポツリと呟いたが、風の音に掻き消されて聞き逃した。
「よく聞こえなかった。もう一回言ってくれ」
「あまり好んで聞く話でもないが、そこまで言うなら仕方がない。三百年前にこの街を焼いたとき、私は生まれ育った孤児院を真っ先に破壊した。心残りはなかった……忌まわしい、早く消えてしまえと。そう願いながら」
「中にいた赤目の子供は……」
「私以外は、全員その日の前には死んでいた」
「全員……? どうして……いや、何でもない。続けてくれ」
アデルの何気ない疑問に、スィエルはふっと目を伏せた。白銀の睫毛が、幕のように紅い瞳を覆う。
「軍による人体実験で、三十人以上いた子供達は一人ずつ使い潰されていった。奇怪な叫びを上げ、腕が折れ、時には子供同士で殺し合い。成績が優秀だったというそれだけの理由が、命の明暗を分けたのだ。仲間の顔はよく知らないが……それでも、同じ獄中に生きる身として意識はしていた……」
酷い話だ。生まれてくる親を選べないのと同様に、容姿は選択できない。生まれる前から運命が決まっていたならば、その仕打ちから逃れることは容易ではない。
「そうか……あんたはそれでも究極術式を唱えるのか。赤目の子供を助けたいんだろう」
スィエルは黙ってかぶりを振る。先程まで街を破壊しようと目論んでいたとは思えないほど、彼は落ち着いていた。これならば、まだ希望はある――アデルは、そう信じた。
だが、次の一言で全てが崩れ去る。
「自分の子供が復讐者になって、きっとあんたの親も悲しんでいるだろう。これがいい機会だ。もうこんなことはやめよう」
「親……? 悲しむ……? いいや、母さんも父さんも悲しんではいない。私を認めてくれる。愛してくれる。人の血を奪えば……私の渇きを潤してくれる」
この男は、何を言っているのか。人を殺すことを、実の両親が認めるなどあり得ない。たとえ、両親も狂気に走っていたとしても、スィエルは三百年以上前に生まれていて、両親は――。
「スィエル……あんたは、騙されてる。普通に生きていても、絶対にあんたの両親はこの世にいない」
「ああ、そうだ。だから、悪魔に願っているんだ。母さんと、父さんに会わせてほしいって。血さえ差し出せば、悪魔は願いを聞いてくれる。母さんと父さんは、いつも私を慰めてくれる」
悪魔が見せている幻影に、この男は惑わされているのだ。それで、親の話が出てきたときに、その狂気を呼び起こしてしまったのだ。己のミスに歯噛みしながらも、何もすることはできない。
恍惚とした表情を浮かべたまま、スィエルは語り続ける。
「母さんは、優しいよ。いつも、抱きしめてくれる。あったかくて、柔らかい手で……それで、とても綺麗で。父さんは、笑顔で話を聞いてくれるんだ……戦って疲れたら、励ましてくれて。幸せだよ」
「……それは、悪魔が見せている幻想だ。あんたは、そんな生活したことがないだろう。孤児院で殺されるような目にあったって話だったが、その孤児院に入れたのは、両親じゃないのか」
深紅の瞳が、僅かに細められる。その眼光は獲物を狙う肉食獣のように鋭く、見るもの全てを凍てつかせるような威圧を放つ。そして、色のない唇が恐ろしい真実を口にした。
「両親は、私が殺したよ」
「はっ……? 今、何て……?」
「ふふっ、今までのは演技さ。全部知っているよ……そう、私を孤児院に入れたのは両親だ。本当は、出会ったときに拒絶された。仕方がなかったんだ。赤目は嫌われていたから、母さんと父さんが私を受け入れないのは当然のことだった。だが、どうしようもなく悔しかった」
大げさにも見えるような手振りをつけながら、スィエルは己の壮絶な人生を語り始める。
「さっき、君は普通の人間は究極術式を知らないはずだと言ったね。ああ、そうだ。普通なら知らなくていいはずの術式だ。でも、私は普通の人間になれなかった。表向きはちゃんとした孤児院だったから、私のような赤目の子供以外にも色んな子供がいたんだ……私は、自由に憧れていた。外に出たら、愛されるようになりたいって思っていた」
狂気の裏に隠された嘆きが、一気に吐き出される。伝承の復讐者として名を残し、国一帯を蹂躙した一人の男の叫び――。それは、聞く者の胸を抉るほど悲痛なものだった。
当たり前に与えられるはずのものを、彼は受け取った事がないのだ。孤独に閉ざされ、殺意を与えられ、彼は戦うことだけを強要された。
凍えた心は、いつしか何も感じなくなって。人を殺しても、大事なものを奪っても、自分が辛い思いをしているとわかっていても、無理をして。
「あんたは……あんたは……」
伸ばされた手を、血に塗れた手が振り払う。雪の上に派手に投げ出され、頭を強く打ったアデルは悶えた。
「もう、夜明けも近い。終わりにしようか」
鞘から引き抜かれた、漆黒の細剣――。アデルの目の前に突きつけられた刃は、死神の鎌のように冷ややかな殺気を放っていた。
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