自分は何者か。
ロゼ・ヴァレンティーンは常に問い続けている。
「……動き出したか」
駒が動く気配。全てに仕掛けを講じ、上手く歯車が噛み合うように細工をする。黒猫、魔眼の少女、そして――主とソレに仕える大災禍も。
ゆらり、ゆらりと世界が揺れる。
玉座の目の前に置かれた豪奢な作りのテーブルと、その上に浮かぶ真っ黒な球体。
僅かに、しかし確実な崩れがゆっくりと広がっていく。それは計算のうち。一寸の狂いもなく組み上げられた計画で、哀れな人間と駒が仲睦まじく戯れている。
「人間と、人間を元にした大災禍……か。私は情が無いから、その楽しさがいまいち分からないが……どう思う、ティアナ?」
虚空に向かって問いかけると、半魚の女が唇に笑みを湛えながら現れる。腕は鱗が月光に照らされて艶やかに煌めき、胸元には大災禍であることを示す、紅玉のペンダント。ティアナ・ヴァルキア――ロゼに並ぶ実力を持つ、嫉妬の悪魔。
「私に聞くの? 私も一応、貴方とは違って情を持っているのだけど」
「だから聞いている。楽しいのか、と」
「どうかしら。私はそうは思わないけれど」
「そうか。有難う」
それだけか、と言いたげな顔だ。それはそうだろう。互いに思考の読みあいをした後、はぁと大きなため息がティアナの口からこぼれ出る。
「貴方って本当に淡白よね。よくそれで悪意を食っていける化け物になれるわ……」
「ふふ、情を持てば悪意は喰えない。乱され、穢され、己の首を絞めることになる。こちらの方が、都合がいいんだ」
首を傾げるティアナ。人間には分からない思考。それでいい。誰も彼も皆堕ちてしまえば、面白みが削がれる。
「それ、一人でやってて楽しいの?」
指が向かう先は、駒が広げられた白黒の板。何年も前に取り込んだ人間に教えられた、数少ない暇つぶしの遊戯。
「楽しいさ。とっても」
「そう……貴方、私に対しては穏やかよね」
「不要な争いはしないに限るだろう? 三位以下の大災禍に対してはああ振る舞うだけだ。なるべく、畏怖を植え付けるためにね」
「情が無いとは何度も聞いているけれど、本当に知らずにやっているなら相当策士よ」
「分からない、知りたいとも思わないけれど。人間は面倒だ……いちいち怒ったり、悲しんだり。全部切り捨ててしまえば楽になるのに」
そう。切り捨ててしまえば楽になる。苦しいとも、痛いとも思わない。なのに、人間達はそれを望まない。ゲームを続け、飽きるほど長い苦しみに自ら身を投じている。
棄ててしまえば、楽になる。
死は救いにならない。死んだとしても、囚われてはそのままだ。選ばなければ、迷わない。そのままを受け入れ、腹の中に入れてしまえばいい。
「ねぇ、」
「ん……?」
「私、回収し忘れた人間があるから戻りたいんだけど」
「ああ、すまない。戻ってくれて構わないよ」
「もう……目が死んでる。いつもの冷酷なロゼ様ってところね」
「……面白い事を言うね」
手を振り、踵を返して去って行くティアナの姿を見送りながら、ロゼは一人思考に耽る。
管理者。支配者。そして、悪意の処理場。
自分は何のために、など考えても答えは出ない。雑念を消し、理性を消し、記憶も、願いも全て無に返す。そうやって、生まれるのは――完璧で、非情で、残忍な王。
鏡の曇りを払うと、現れたのは白髪に翳る金色の瞳。その目は何も映さず、ただ虚ろな光を湛えるまま。
悪意を喰らって、喰らって、溜め込んで。世界から無尽蔵に供給される悪意を、余すこと無く吸い込んで。
――お前は、私の代わりだ
その言葉を吐いた忌々しいモノは、今となっては手中となり、永久に続く嘆きに苛まれている。同じ罰を負わせている。
代わりに食い潰されることを相手に望むなら、こちらの代わりになる覚悟も当然持っているだろう、と判断して。
「■■に会わせろ」
その呟きに呼応して、机上の球体は別の世界を映し出す。人間界でも、魔界でもない、ロゼと対象のみが入ることを許された場所だ。
ずぶり、と手を球体に突き入れ、全身を溝の中へと沈み込ませる。悪意の塊であるロゼを呑み込もうと、溝は喜々としてその身を踊らせた。
今となっては、■■はただ呪詛を吐き続ける贅沢な贄。惨めな姿でそこにあるだけだ。世界に至るまでの道中、視界が遮られるほどに溜まった穢れを吸い込み、ゆっくりと嚥下する。
本当は、人間の生き死になどどうでもいいのだ。この■■という最上級の贄がある限り、欲は満たされ、飢えることはない。だが、それが役目だから。呪いだから、最期にかけられた一つの枷だから果たしているだけ。
■■とロゼは一心同体の存在。ロゼが持たぬ善心を、持っていた――
はずだった。今は、完璧にロゼに取り込まれ、されるがままの傀儡と化しているが。
どれぐらい歩いただろうか。気づけば、最奥にまで至っていることに気づき、歩みを止めた。
そこは、人間共に見せれば地獄絵図、とでも言うのだろう。いたる所に瘴気が漂い、足を踏み入れた瞬間に濃密な悪意が侵入者を喰らわんと殺到する。だが、そんなものは通用しない。
「今日は随分と煩いな。久しぶりに来てみれば総出で歓迎……か」
「ギアァァァッ!!」
「なんだ、狩られたいなら前に出ろ。すぐに楽になる」
数瞬。たったそれだけで、ロゼの足元には幾重にもなる骸が築かれる。剣は使わない。使う必要もない。こんな低俗な魔物共は、目にするだけで射殺せる。
「お前たちにその贄を喰わせることは許可していないはずだが?」
「キッ……ギャジャジャア……」
「飼い主の名も言えない。最初の頃は、いい悪意を残していたが……そこまで堕ちるとはな、人間」
「ギャジャ……ジャアアアアッ!!」
「小癪な。大災禍以外は興味本位で残しているだけだ。お前にもう、猶予は必要ない」
元々人間だったものを幾つか取り込み、魔物に転換する。それは、一時の退屈しのぎ。別に戦闘能力として使うわけではない。端から信用はしていないし、そもそも大災禍すら手駒のうち。
別に魔物と戯れる義理もないし、ロゼにとっては、「いつの間にか面倒な魔物になっていたから処分しよう」という程度の考えだ。
ゆえに――――。
「エ・ノシュヴ・ディレンス」
静かに、しかしそのたった三語に込められた力は絶大なもので。周囲を覆っていた魔力を全て取り込み、ロゼはゆったりと笑みを口端に刻む。
低俗で大した悪意も持っていないため、味は最低だ。邪魔な魔物を払うには勿体ない術式であったかもしれない。そんなことをぼんやりと頭に浮かべ、それからさっさとその思考を破棄する。
終わったことだ。処理の邪魔になる情報は、速やかに削除しなければ。それよりも優先しなければならないことは、目の前にある。
血泥に囲まれ、数多もの腕に拘束され、身動きの取れない同胞に、ロゼは穏やかな笑みを浮かべながら語りかける。
「最近はどうだ、■■」「くく、楽しそうだな……満喫しているようで何よりだ。私か? 私は……」「――が欲しい? 我儘を言えばどうなるか、まさか想像できない頭では無いだろう」「ふふ、利口で助かる。いつもいつも人間相手で辟易とさせられているからな」
■■は何も喋ってはいないが、意思などどうでもいい。覚めぬ悪夢に囚われているのを、ただ嘲りに来ただけなのだから。
呪い合われた仲。同胞同士の殺し合い。あの時、何を言っていたか。何と呟いて、■■は死んだか。記憶にない。別にそれにたいして感慨を覚えることも嘆きを叫ぶこともない。ただ、無があるだけだ。
抹消。確認のメッセージ。構わない、消せと命じれば、その瞬間、記憶は全て塵に化す。そうやって、色んなものを捨てれば楽になる。
永遠に悪意を喰らい続けろ――それが、お前の罰だ
「また来るよ、■■」
■■に名前は、ない。
その情報は、脳から完全に削除した。処理した。
だから、今日も■■と呼ぶ。
仮の名前で、決まりのない、言葉の羅列を。
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