凍えた孤城の中に蝋燭の炎がふっと灯る。いつも城主が座るその席には、瓜二つの悪魔が腰掛けていた。血で作られたワインを口に含み、舌で転がす。悪魔は食事を必要としないが、血は必要だ。そのため、加工して飲む者も少なくない。
「なぜ、あの少年を逃したんです?」
「悪かった。私が、弱かったんだ」
「えぇ、知っていますよ。貴方が弱いことも、決心がなかなかつかない性格であることも……」
叱責に怯え、肩と声を震わせるスィエルを、悪魔はローブでそっと包み込む。大丈夫、と耳の横で甘く囁やけば、すぐに体の緊張が解かれた。
「今日は、ゆっくり休んでください。疲れたでしょう? 温かい毛布もお持ちしますね」
「あ、ああ……至れり尽くせりだな。ありがとう」
「私は貴方の召使いのようなもの。契約者には特別な奉仕をするのが当たり前ですよ」
スィエルを寝室に送り、一人自由になったエルシャは微笑む。単に眠らせたわけではない。城全体に拘束の術式を施したのだ。これで半日は彼が目覚める心配はない。黒薔薇が咲き誇る城は、まるでどこかの国のおとぎ話のように見える。
「ふふっ、眠り姫……ですか。おかしな冗談を思いつくとは、私も疲れているのかもしれませんね」
王子様のキスは、こんな雪深い所には来ないだろう。どうせ、来たところで殺すだけ。黒薔薇を赤薔薇に変えてしまうほど、切り刻んで、痛めつけて、真っ白な大理石の床を鮮血で満たせばいい。
茨に包まれた主は、穏やかな寝息を立てている。今日もまた、母親と父親に愛される夢だろうか。悪魔は夢の中身を調べることも出来るが、今日はそんな余裕はない。
「貴方は何も知らなくていい……ただ、眠っていれば、私が終わらせます」
情け容赦は、エルシャの心に存在しない。人間など残らず消えてしまえ――そう思っている。廊下の明かりも全て消し、暗闇に一人残される。
「あぁ、あはっ……今度は私が奪う番ですね……」
寝室の壁に掛けられた細剣を左腰に吊るし、ジャケットを着込む。スィエルと一緒の姿になった、もうひとりの化け物が鏡に映る。スィエルの睡眠を邪魔しないように扉をそっと閉め、鼻歌を歌いながら、エルシャはゆっくりと階段を降りていく。
「人間達は、どう思うでしょうか……私が、スィエルではないと知ったら? いつも起こされている惨劇が、私の手の中で進んでいると知ったら? 絶望を見せてくれるでしょうか?」
遠くから、重い鐘の音が聞こえる。第一区の中心にほど近いところに建てられた時計台の鐘だ。スィエルが孤城に封印され、暫くしてから出来たもので、人々に時を教えている。
軍帽を被り、白手袋をはめ、準備は整った。転移術式を唱え、第一区に転移。赤い光がエルシャの体を包み、意識ごと飛ばしていく。
「人通りは少ないようですね。まぁ、いいでしょう」
転移先は、明かりの少ない市街区のはずれ。冬の寒さを閉じ込めたような光が、静かに天に瞬くのみだ。コツ、コツと敢えて足音を立てながら、エルシャは進む。
ガサゴソと誰かが動く物音がするが、安い命に興味はない。いつ死んでもいいと思っている輩の血は悪意が足りないからだ。
殺されるその瞬間に、最大の恐怖を与える。それが、悪魔のやり方だった。
随分と進んだところで、ようやく賑やかな笑い声が聞こえてきた。放置された木箱に隠れて様子を見てみれば、酒を呑み交わして派手に騒いでいるようだ。
安物の布の上に座る男が三人。野外で暮らさなければならない人間だろうが、酒を飲む余裕があるということは、貧民の区分ではない。
どうせ、酒と賭け事に狂って散財でもしたのだろう。エルシャは大袈裟に両手を広げて、笑みを浮かべながら距離を詰める。
顔が分かる距離になっても、まだ男たちは死神がすぐ側まで迫っている事に気づかない。賭け事に夢中で、声も大きいので足音がかき消されているのだ。エルシャは細剣を引き抜き、ゆっくりと男たちの方に差し出す。
「ひっ……!! お前は……」
いつ男たちが気づいたかと言えば、仲間の一人の肩に先端が触れる瞬間だ。ようやく気づいてもらえたエルシャは口端を歪める。
「ああ、私に見つかってしまうなんて可哀想に。いい酔いの覚まし方を教えてあげましょうか」
そこではっとエルシャは気づく。化けたならば、口調も変えなければ話にならない。自分のミスにくすりと微笑をこぼしながらも、目は笑っていなかった。
「殺せ、奴を早く殺せ!!」
「殺す? 出来るならば、やってみればいい。どうせ貴様らが私に敵うことはないのだから」
武器も持っていない状態で、戦うことも出来はしないのに、威勢だけはいい。体を貫かれても、力の差を見せつけられても、喚くことだけはやめない。それが、無意味な行為であると知りながら。
――まるで、過去の自分を見ているようだ。
エルシャは嫌悪に眉をひそめる。早く殺してしまえば、心に留まるこの靄も消えてくれるだろうか。右足で踏みながら、伏した男の背に何度も剣を突き立て、その度に散る叫びを余すことなく味わう。
奪え、奪え、奪え。意味のない命令が、エルシャの脳内を支配していく。
強欲に支配された化け物は、飢えを好まない。だから、その渇きを癒やすために奪うのだ。
空のガラス瓶で頭部を殴り、割れた破片を投げて血を散らせる。綺麗に割れた部分を少し肉の上に滑らせれば、簡単に裂けてしまった。
余った酒を軽くあおり、喉に通す。味は悪くないが、酒も安物だったようで、あまり美味しいとは言えない。
そのため、エルシャは男の血を奪って口直しをすることにした。一口飲んでみると希望から絶望に叩き落されただけあって、とろみが混じった味わいが美味だ。
「人間の体は脆いですね……ふふっ、また素が出てしまいました。私にスィエルの代わりは難しいようです」
人気のない路地裏に降り立ったはずだったが、人間が集まる気配を感じ、緊張感を高める。エルシャは悪魔の中でも耳が優れている。だから、第二十七区というセーツェンの最西の場所からでも、最北に位置する第一区の時計台の音は集中すれば聞くことが出来るのだ。
「……三十人か」
その呟きが虚空に消えたところで、霧の中から大勢の人間がわらわらと出てきた。その中には一際目立つ容貌の男も。
海よりも澄んだ青の髪をオールバックにし、双眸は蒼穹石のような輝きを放つ。胸に留められた二つの徽章は、彼が凄腕の魔術師であることを表す――。
「通報を受けた場所はここか……全く、裏路地を狙うとは。お前さんはどうしちまったんだ」
「アルト・フォーケハウト。貴様も来ていたのか。私は変わらない……ただ、私が求める復讐を果たしに来ただけだ」
「復讐、か……リーベはきっと悲しむだろうな。お前さんに彼女の思いは届いていなかったか」
「あぁ、別にどうも思わなかった。子供の戯言など聞くつもりもない」
スィエルの心には届いたかもしれないが、エルシャにとってはあんな小娘の言葉など興味はなかった。それよりも、スィエルを惑わせた忌まわしき敵だ。
会話をしながらも、悪魔の目は戦場の情報を分析することに向けられる。重装兵が五名、術士が五名、回復術士が二名、前衛が十名。加えて、支援部隊が五名、高台で狙う弓兵が二名。
一名。魔術師、アルト・フォーケハウト。
逃げても構わなかったが、城に帰ってもスィエルは眠ったままだ。加えて、アルト以外の敵は大した実力もない足枷。彼らを肉塊に変えるのもいいだろう。
これから起こる惨劇を想像して笑みをこぼしたエルシャの表情は、次の言葉で一変する。
「いや、スィエル・キースについてじゃない。俺はお前さんに話しているんだ……そうだろう、悪魔」
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