孤城の夜想曲

伝承の復讐者
宵薙
宵薙

#16 幕は上がる

公開日時: 2020年12月15日(火) 22:37
更新日時: 2020年12月17日(木) 13:40
文字数:3,696

 暗い闇に閉ざされた、氷雪の孤城。その中で、一人の復讐者が静かに術式を詠唱していた。


 スィエル・キース。深紅の瞳に輝きはなく、いつも着用している軍服も脱いでいる。代わりに纏っているのは、宵闇に溶け込むような漆黒のローブ。加えて、黒の手袋に、緋色の石がはめ込まれた指輪をつけている。


 三百年という長い年月を生きたスィエルは、常人には発動できない魔術も扱えるようになっていた。勿論、それは才能だけではない。書斎の上に積まれた魔術の本に、術式を暗唱できるまで反復練習。


 努力の末に手に入れた魔力は、今や誰にも敵わないほどの実力を秘めている。


 今までは、前奏に過ぎない。これからが本番だ。術式の詠唱を終え、スィエルは玉座の直ぐ側に置かれたガラスのケースを開く。


「……」


 そこにあるのは、純白の輝きを放つ一丁のバイオリンだ。街を炎で包んだあの日に殺した両親の骨を物質変換術式で変換し、この楽器を作った。魔力が込められているので、これで魔術の発動も行える。


 手袋を外し、指輪も王座に置いて、バイオリンをケースから取り出す。暫く弾いていないので、少し手入れが必要なようだ。といっても、普通の楽器ではないために修理も全て術式で行うのだが。


「――フィクス・エルレース」


 雪のようなものがはらはらとバイオリンの上に降り積もり、傷みを直していく。己の手で殺した両親とはいえ、後悔が全くないわけではない。叶うならば、愛され、認められ、普通の家族として共に暮らしたかった。


 それが夢のまま終わってしまったから、こんなに残酷な最期を肉親に与えている。


 なぜバイオリンなのかと言えば、軍の孤児院で唯一の楽しみだったのがバイオリンを弾くことだったからだ。軍の関係者の中にも、子供を人体実験に使うという非人道的な試みに対して反発する人間はおり、そのうちの一人が与えてくれた。


 もっとも、孤児院から抜け出したときに楽器まで持って出る余裕はなかったため、七日間の内どこかで燃えてなくなってしまっただろうとスィエルは思っている。バイオリンを弾けば、両親のぬくもりを感じられるかもしれないと密かな期待はあったものの、そんなことがあるはずもなく、ただ虚しさが増すだけだった。


 誰もいない城の中で、スィエルは黙って曲を弾き続ける。腕も落ちているのか、響きに張りがない。前まではもう少し伸びやかな低音が出ていたような気がするのだが、弾き続けないと音も劣化するようだ。


 孤城に響く、夜想曲。これは、死者への弔いでもある。


 奪わなくていいはずの犠牲を奪ってしまった。流さなくてもいい涙を流させた。生きているだけで罪となる死肉喰らいは、いつになっても許されるべきではないと知っている。


「だが、奪わなければならない」


 赤目に産まれてしまった者が生き延びるためには、誰の助けも借りてはいけない。人の道を外れた悪魔に、元の道を歩む権利は残されていない。緑髪の少女は、化け物になった男のことを認めてくれた。しかし、それがこの世界の全てではない。


 最後の一音を弾き終わり、スィエルはバイオリンをガラスケースの中にしまう。ケースの中には真珠のような白さを持つ薔薇が敷き詰められているが、これらは全てスィエルが大事に育て、大きくなったものを詰めている。


 贖罪と赦しを求めて、それでも生きるために手段を選ぶ余裕はなくて。結果的に罪を重ね、その度に幻想に惑って。自分でもおかしなことをしている自覚はあるのに、やめられない。


 復讐を辞めてしまえば、彼らへ降伏したことになる。赤目の人々の権利は日々侵されている。例え同じ愚か者に成り下がることになろうとも、引き下がることは許されない。


 賽は投げられた。火蓋は切られた。戦いの鐘は鳴った――。己の心を押し込め、前を向かなければ。


 スィエルは細剣を携え、ゆっくりと外へ歩き出す。その足取りは、軽いとは言えない。重たい鉄の枷をつけられたかのようにずるずると靴を引きずり、顔は前を向いていない。どこかに死に場所を求める亡霊のようだ。


 手を伸ばそうと思っても、助けを振り払おうとする自分がいる。悪魔の幻想が心地よく、現実の醜悪さに吐き気がする。血に飢え、愛に渇き、独りを欲している。


 扉を開き、中庭を彩る薔薇たちの香しい匂いを吸い込みながら、重たい足を動かす。開けた場所で風術を発動し、風にのって夜空を旅すると、青い旗が見える屋根のついた監視塔が見えてくる。そこはスィエルのお気に入りの場所だ。


 孤城に閉じ込められた日々の中で、どうしても苦しくなったときは、夜風に当たるのが癖だった。城壁の上から見下ろすと、街の様子がよく見えるのだ。灯りがともる夜は人々の嬉しそうな顔を想像したりもして、少し羨ましいなと思っていた。


 つま先を下に向け、衝撃を和らげながら着地する。続けて炎術を詠唱し、明かりを確保する。


「……ああ、私は一体何を求めて三百年も生きていたのだろうな」


 眼下に広がるのは、無数の光。それを遮るのは、他でもない――自分だ。他人と関わることが怖くて、まだ信じられなくて、そうして遠ざけている。虚空に掲げられた手が、一瞬にじむ。


 三百年間、復讐だけを願っていた。赤目を殺した故郷が憎くて、許せなくて、もう一度戦火に街を包もう、と誓ったはずだった。


 それなのに、踏み出せない。人間の善意をまだ信じたいと願っている。人間の血はもう捨てたはずなのに。悪魔と契約した段階で、民や国に歯向かう事を決意したはずなのに。


 しばらくぼんやりと夜景を眺め、夜風が寒くなってきたところで帰り支度をする。今夜もまた、街には行かなければならない。幸せを得に行くのではなく、幸せを奪うために。


 スィエルは大きく息を吸い込み、吐き出す。もう、迷ってはいられない。


「……悪魔、頼みがある」


「何でしょう」


 スィエルの前に靄が集まり、人の姿を取っていく。悪魔は、スィエルが呼べばいつ何時でも現れるのだ。


「私の魔力を、最大限まで引き上げてくれ。私が、私でいられなくなるぐらい」


 今も十分、魔力は強くなっているが、スィエルが望んだのはそれ以上の快感に浸ること――魔力の暴走を故意的に起こす、というものだ。


 スィエルの願いに、悪魔は口端を僅かに吊り上げる。そして、はめていた白手袋を外し、靄のようなもので出来た手をあらわにした。


「ようやく決意が固まったようですね。貴方の望みなら、幾らでも叶えてあげますよ」


 スィエルの首に刻まれた契約の跡に、悪魔は手を当てる。すると、膨大な量の魔力がスィエルの体になだれ込んだ。


「ああ……私は……」


 これで、もう迷わない。誰の声も届かない。復讐に狂い、化け物として街を蹂躙し、焼き尽くせばそれで終わりだ。


 三百年前の、閑散とした街の光景が蘇る。生物の呼吸すらしない、風の音も途絶えた丘の上で、スィエルはまだ熱のある人体を切り刻んで回った。国の誰もがスィエルのことを赤目の悪魔だと蔑み、罵倒と嘲笑を浴びせ、そして数瞬の内に物言わぬ骸へと転じた。


 ――あの時と、同じように。


 どうせ、三百年前の人間はもう生きていない。自分だけが、過去と現在に取り残されている。


 緑髪の少女のことだけがスィエルの心の中では気がかりだったが、どうせあの子供も別人のように残忍に、残虐になった自分の姿を見れば、恐れて逃げ出すだろう、と思った。


「……ごめんな」


 悪意が、意識を呑み込んでいく。誰もが憎く、敵のように見えてくる。衝動が全身を駆け抜け、今すぐにでも斬りかかりたい。


「スィエル、よく思い出してください。貴方は、この城で何のために三百年間も過ごしたのか。貴方を傷つけ、殺したのは誰だったのか」


「私は……何故……」


「貴方が愛そうとした人間は一体何をしましたか? 人間に慈悲を向けて、何かいい事がありましたか? 無いでしょう? 貴方は、心に傷を負った。耐えがたい苦しみに耐え、この日まで生きてきた」


 ふっと抱き寄せられた感触が、母親のぬくもりに似ていて。どこからか、父親の優しい声が聞こえて。また騙されていると分かっているのに、求めてしまう。


「ふふっ、スィエル。まだ、欲しいでしょう? まだまだ沢山、愛が欲しいでしょう? 両親に会いたいんでしょう?」


 なら、奪え。殺せ。血を一滴残らず搾り取れ。呪いのような命令が、脳の奥深くまでを食い尽くしていく。


 体のあちこちが軋むように痛くて、スィエルは思わず叫び声を上げた。だが、強化はまだ終わらない。


「くぅっ……!」


「スィエル……ここまでにしておきますか? それとも、限界まで自分を試しますか?」


「まだだ、まだ私は……」


 答えを言い終わらないうちに、悪魔によって更に力が注ぎ込まれる。普通の魔術師であれば、まず耐えられない量だが、スィエルは身体を軍によって改造されている。


 国一つ潰せる最強の殺戮兵器として完成された青年の肉体は、常人の数倍の耐久度を持つのだ。


 儀式が終わり、スィエルはその場に倒れ込む。目を覚ませば、何もかも忘れて、冷酷な復讐者となっているだろう。


「さて、惨劇の幕は今開かれた。哀れな銀髪の青年と、正義に狂う彼の故郷は一体どのような物語を紡いでくれるのでしょうかね」


 悪魔の呟きを、聞く者はいない。

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