闇夜に、星のような閃光が瞬く。人形のように整った顔立ちに、長身痩躯の美貌の青年。それらを隠すように着込まれた軍服には、夥しい量の返り血がこびりついている。
第三区ルシュテン――第一区・第二区から少し外れた東部に位置する区だ。田園地帯が広がり、ちょっとした宿の灯りが夜を彩るこの区は、商人たちの休憩場にいつもならばなるはずの場所は、血の臭いが漂う戦場と化していた。
盗賊ならば、通常は作物を盗むために人々に襲いかかる。そのため、物の被害は出ても、人の被害はそこまでない。彼らは血より食料や金になるものを求めるからだ。だが、軍服を着た化け物は、盗人ではなく殺人鬼だった。
「スィエル……キース!!」
殺人鬼の名を叫びながら息絶えた人数は三十を超える。にも関わらず、一向にこの惨劇が終わる気配はない。
「ご丁寧に紹介をどうもありがとう。だが、それで容赦するとでも思うか?」
「紹介なんてしてねぇ……誰か……誰か!」
「誰が来たところで同じだ。全員殺されたいなら好きにしろ」
青年の目には幽鬼のような虚ろな光が灯り、淡々と斬り続けていく。高速で叩き込まれる攻撃は誰にも止められない。
昨日の夜、孤城に帰った後。悪夢を見たスィエルは、悪魔に懇願した。愛してくれ、認めてくれと。他者から嫌われ続ける悪夢によってひどく憔悴していたスィエルは、愛に飢えていた。
悪魔は微笑み、スィエルを宥めた。そして、悪魔はスィエルにある呪いを施し、スィエルはそれに従った。その結果、スィエルは人間に対しての感情を失い、ただ戦い続けることを至福の喜びととらえるようになってしまったのだった。
「ああ……無様なことだ。私に勝負を挑むなんて馬鹿げている」
スィエルは細剣を鞘から引き抜き――そして、強く押し込んだ。澄んだ金属音が鳴り、喧騒を黙らせる。
「もうわかっただろう? 力の差は歴然としている……足掻いたところで無駄だ」
「化け物……赤目の悪魔が……!!」
「何とでも罵ればいい。弱者の言葉に興味はない。幾らでも吠えてくれ――フルール・イーサシブル」
色のない唇が微かに動き、高速で高等凍術の詠唱を行う。術式には五つの位があり、高等は中位に位置するものだが、高等とついているだけあって、その威力は相当なものだ。
氷の茨が敵に巻き付き、動きを封じる。その隙にスィエルは跳躍して距離を詰め、息の根を止めにかかる。溢れた命を氷の花が喰らい、花は更に成長していく。
完全に動きが止まった敵たちをスィエルは一瞥し、ほぅと息を吐く。戦いには慣れているが、この多さは疲労が伴う。
「悪魔、今日の贄だ」
「こんなに凍らせておいて後始末は私に任せる、ですか……まあ、いいでしょう」
悪魔は呆れているようだったが、スィエルは気にも止めない。その目は、茂みに隠れたつもりの、何者かに向けられる。
「そこで何をしている? 早く姿を見せろ。貴様はうまく隠れたつもりかもしれないが、まるでなっていない」
「……」
意外にもおとなしくすぐに出てきた少女の容姿は、どこかで見たことがあるような、そんな既視感があった。そんなはずはない、と頭を振って、雑念を捨てる。
あんな無垢な少女に、絶望を見せたなら。一体どれほどの恐怖を滴らせながら、死ぬだろうか。スィエルは血が張り付いたままの唇を緩ませる。
「貴様も私と戦うのか。死にたいのか」
「できれば戦いたくない。でも、貴方を放っておけない。貴方は、戦いを恐れているって知っているから……」
「弱い? 怯えている? 私が……戦いを恐れているだと?」
この少女は何を言っているのか。スィエルは嫌悪感に眉をひそめた。初対面であるはずなのに、やけに親しい。それに、逃げ出すこともなく真っ直ぐにこちらを見つめてくる。
「そうよ。忘れてしまったの? 私と会ったことも覚えていないの? 貴方は戦うことを、人を殺すことを嫌ってた……」
「煩い」
スィエルの目は憎悪に満ち、大股で距離を詰める。そして、少女の襟首を強引に掴み、冷ややかな双眸で睨みつけた。
「な……何……」
「いつまで私に戯言を吐けば気が済む」
「戯言なんかじゃない!! 貴方は自分の心に嘘をついている……もうボロボロなのに、それでも無理に繕っているだけ……」
「黙れ。私に指図をするな。復讐がしたくないだと? 私を惑わせて逃げ出したいという魂胆か?」
少女は唇を噛むが、スィエルにはその理由が分からなかった。こんな殺人鬼を目の前にして、この少女は一体何をそんなに悔しがっているのか。
心を持たぬ冷酷な男に、何を期待しているのか。一瞬の気まぐれでこうして生かしているだけなのに、逃げもせずに、こうしてされるがままになっているのは何故なのか。
「貴方は……悪魔に騙されている」
「貴様が何故悪魔の存在を知っている。私の事を調べたのか。それとも私が知らないうちに、悪魔と言葉を交わしたか。どちらにせよ、生きて帰れると思うな」
スィエルは少女の首を右手で掴み、左手で腰に吊るした鞘から漆黒の細剣を引き抜く。この少女を殺せば、また復讐を続けるだけだ。復讐を願って、世界を憎んで、無力な自分を呪って過ごした三百年を、少女一人の虚言で乱されてはたまらない。
「もう二度と私の前に現れるな。邪魔だ」
左手に握った細剣が、少女の首に食い込む。血が滴り、スィエルの目は、少女の顔に夢中になる。苦痛をにじませながら、なおも抵抗を続ける少女。
しかし、この刃をもう少し強く押し込めば、肉は裂け、骨は砕かれ、筋は弾ける。
最期に叫ばれる怨嗟はどれだけ甘美な響きだろう――。スィエルの顔には狂気的な笑みが浮かび、瞳孔は開かれ、体は歓喜に震える。悪魔によって強化された憎悪が、スィエルの感覚を狂わせていたのだ。
「ああ……はは……はははははっ」
虚ろな笑いを喉から漏らしながら、少女の首を刈り取ろうとした、そのとき。スィエルの右肩を何かがかすめ、鮮血が吹き出した。
「くっ……!」
スィエルは急いで治癒術式を詠唱しようとするが、なおも攻撃は続いている。一旦バックステップで距離を取り、飛来した鋼鉄の刃を迎え撃つ。
「……増援を頼んでいたとは予想外だ。姿を見せろ。さもなければ……」
「嬢ちゃんに手を出すな。こいつはまだまだ半端ものだが、それでも日々依頼をこなそうと頑張っているんだ」
空色の短い髪をオールバックでまとめた、渋めの顔をした男が現れる。目は髪色と同じく澄んだ蒼、年齢は三十代あたりか。
首元のボタンを外した白のシャツに、黒のベスト。武器の類いは見当たらないが、魔術だけで対抗できるほどの実力者故だろう。
しかし、それにしては若いな、というのがスィエルの正直な感想だった。
「知り合いか。この女の身元の説明はいい。名を教えろ」
抜剣しているというのに、男は変わらず怪しげな笑みを浮かべたままだ。数瞬の膠着状態が続いた後、男は口を開いた。
「アルト・フォーケハウトだ。お前さんにとってはあまり聞きたくない名なのではないか?」
「フォーケ……ハウト……まさか」
「そのまさか、だ。俺は、スィエル・キースを封印した、タレス・フォーケハウトの血を引く者。三百年前、お前さんは封印されたようだが……随分姿は若いんだな。寿命の凍結でもしているのか?」
「それに関して、教える訳にはいかない」
「ほう、そうか。別に構わないが……お前さん、随分と魔物に好かれているようだな。それで強化された力を使ったのだろう?」
スィエルは口を閉ざす。アルトの問いに向けるのは、感情のない虚ろな瞳と、地面と平行に構えられた細剣だけだ。
「おーおー、怒ってんなぁ。そんなに家元が憎いか。それはそうだろうな。お前さんは三百年間一人ぼっちで、ずっと孤城に閉じ込められていたんだから。でも、そんなお前さんの味方まで殺してどうするんだ」
「貴様らがただ謝った程度で、この憎しみのどこが理解できていると言うんだ!! 私の孤独を理解できるのはあの悪魔だけだ……悪魔、皆殺しにしろ」
だが、悪魔が現れる気配はない。気を損ねたか、とスィエルは思ったが、血を得られるとなれば悪魔は飛び出してくるはずなのに。
「悪魔……聞いているのか」
「ええ……聞いています。ですが、得られる益が少なすぎます。最強の魔術師と戦ってどうするんですか? それに、相手は貴方を封印した魔術師の遠い子孫。また、同じ過ちを繰り返すつもりですか?」
「っ……そんな無駄なことはしない」
「分かっていただけたなら結構。アルト・フォーケハウト。貴方といきなり会うとは思っていませんでしたよ。スィエルは私が可愛がってあげますから、どうか、彼の崩壊を止めてくださいね……くくくっ……」
「アルト・フォーケハウト……三百年間の憎しみを味わわせるまでは、貴様を追い続ける」
悪魔はスィエルの顔を手で覆い、何かを呟く。すると、強化が解け、スィエルの体が糸が切れた操り人形のようにふらりと地面に倒れ込む。
「ふふっ、疲れて眠ってしまいましたか。確かに貴方には酷な強化でしたね」
悪魔はスィエルの頭をそっと撫で、リーベとアルトに酷薄な笑みを見せる。支配欲に溺れた悪魔は、青年を抱きかかえると闇夜に溶けて静かに姿を消した。
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