宥める声が聞こえる。優しい声が聞こえる。その甘さに、スィエルは身を委ねる。これは現実ではない、これは幻想だと思っていても、この夢の心地よさは離れがたい。
目の前に広がるのは、濃い霧とその奥から溢れる太陽のような光。その他には何もない。
だが、スィエルの心は晴れやかだった。夢の中でうなされるより、ここで夜が明けるまでゆっくり過ごしたほうが余程幸せだ。
「……それにしても、ここに来るのは何度目だろうか」
思い出そうとすると頭が痛むが、なんとなく既視感がある光景に眉をひそめる。この幻は、一度や二度ではなく何度でも体験したような、そんな気がしてならないのだ。
何もないのですることもない。スィエルは後ろに手をついて座り、ぼんやりと思考に耽る。
復讐を誓ったというのに、怪しげな少女を逃がしてしまった。だが、それに関しては後悔はなかった。
あの少女は、自分には殺せなかった。赤目だからと差別をしなかったから。受け止めてくれたから。
化け物だと言わずに、一人の人間だと認めてくれたから。スィエルは、嬉しかった。
その後も、微風に吹かれながら惚けていると、何やら声がする。スィエルは目を閉じて、その声の方に耳を傾ける。
「スィエル、私達の愛しい子」
「お前は何も間違っちゃいない」
母さん。父さん。
スィエルは弾かれたように飛び起き、辺りを見回す。しかし、どれだけ探しても、二人の姿は見つからない。スィエルの前には、真っ白な光がどこまでも続いているだけだ。
それでも、スィエルは探し続ける。名前も、顔も、何も知らない親の存在を求めて。
「二人とも……どこにいるんだ。返事をしてくれ……」
「ちゃんといるじゃないの。もう、スィエルはせっかちなのね」
朗らかな笑い声。しかし、スィエルの前に母親の姿はない。光が揺らめいているだけで、先程と何も変わらない。
「スィエル、こっちにおいで」
こっちと言われてもどこなのか分からない。父親の姿は見えず、光が嘲笑うだけだ。スィエルは闇雲に光が射す霧を進み始める。
正解に近づいているのか、遠のいているのかも分からないが、それでもスィエルは前に進むしかなかった。
「スィエル……私の愛しいスィエル」
「母さん……なら、どうして私を孤児院に入れたんだ。どうしてちゃんと育ててくれなかったんだ?」
スィエルの問いに、答える声はない。
「父さん、どうして? どうして赤目はこんなに酷い目に遭わないといけなかったんだ?」
やはり応える声はない。両親の笑い声が、スィエルには辛い。手にできなかった幸せに、どうにか手を届かせようとした、その時。
「貴方なんて最初からいなければ良かったのよ。穢らわしいその目で私たちを見ないで」
「赤目だったからお前は虐げられたんだ。今更何を言っている……当然のことだろう」
突如、光の世界に亀裂が入る。どれだけ叫んでも、誰も聞く人はいない。両親の笑い声がもはや呪いのようにも感じる。
落ちていく。深い闇の中に。
落ちていく。暗い影の中に。
落ちていく。思い出したくもない、あの地獄のような毎日に。
目を開くと、そこは現実だった。
骸の山。流れ出た血は一面を濡らし、ブーツに絡みつく。振り払っても振り払っても、悪夢は追いかけてくる。叫んでも無駄だ。助けを求めても、周りは全員敵なのだから。
同じ顔、同じ姿をしたもう一人のスィエルが、人々を無情にも切り裂いていく。哄笑を上げながら人間をいとも容易く殺す化け物のことを、スィエルは見ていられなかった。
「やめろ……やめてくれ!!」
軍帽の奥で鈍く光を放つ双眸が、スィエルをにらみつけた。黙れ、と唇が動き、その気迫にスィエルは圧される。
「やめろだと? 貴様は何を言っているんだ。赤目だからと虐げられ、日々味わった屈辱をもう忘れたか?」
青年はスィエルの襟首を掴み、至近距離で問い詰める。
「忘れていない……確かに、地獄のような日々だった。辛くて、苦しくて、何度も首に刃を当てた……だが、これは……」
「酷すぎる、だろう? そんな甘い思考をまだ持っているとは呆れたな。私たち赤目は何人も……いや、何百人も何千人も身勝手な迷信によって殺された。今でも差別や迫害は続き、赤目は絶望に支配されている。そのままでいいのか?」
スィエルはつばを飲み込む。暴力で、何か解決が出来るとは思っていない。だが、それ以外の方法を知らない。話し合いをしても無駄だ。赤目の話を聞く人間などいない。
あの少女は違ったが、少女のような人間は多いとも思えない。期待したところで、少数ではたいした動きは望めない。殺し合いをしても、血と犠牲が増えるだけだ。なのに、自分は血を得ることでしか、己の心を癒やせない。
「よくは……ない」
震える声で、スィエルは自分と同じ顔をした青年の問いに答える。悔しくて、歯がゆくて、何も出来ない己が憎い。声と共に、肩も小刻みに揺れる。うなだれるスィエルの背中を、青年は血まみれの手で優しく撫でる。
「そうだろうな。だから、奪うんだ。今まで奪われてきたものを、奪い返す……そうすれば、彼らは赤目を虐げようとは思わない。絶対的な力で服従させ、徹底的に叩き潰す。それだけでいい」
「奪われたものを、奪い返す……」
「ああ。愚者に慈悲など必要ない。救済を考えるな、己が生き延びることだけを考えろ。弱者は殺せ。その血を啜り、復讐を遂行しろ」
青年の手が背から額に移動し、スィエルの脳に過去の記憶がねじ込まれる。喉から絞り出される絶叫。全身の傷が悲鳴を上げ、四肢が跳ねる。これは夢だ、現実ではない。そう思っていても、苦痛は耐えられる範疇をゆうに超えていた。
身体に刻まれた、幾つもの火傷の痕。夥しい数の切り傷。殴打によって作られた痛々しい痣。
脳に流し込まれた記憶は、全てスィエルが過去に体験したものだ。国のためだと人体実験を強制され、赤目に産まれただけで、身に余る罰を受けた。心が癒えることはなく、引き裂かれた感情は未だに失ったままだ。
日々の暴力。人間による悪意。罪のない人間に濡れ衣を着せ、国を守れと強制する――それらは、スィエルを悪魔に仕立て上げた。
「があっ……ぐああああっ!! 嫌だ……助けてくれ……」
「ようやく思い出したか。あの地獄のような生活を、もう繰り返したくはないだろう?」
「ああ、もう味わいたくない。もう、私は苦しみたくない。震えたくない。愛されたい……笑って過ごしたい」
スィエルの喉から嗚咽が漏れる。人々の悪意に立ち向かう力は手に入れたはずなのに、まだ過去の悪夢に囚われている。
未だに人を恐れ、悪魔と手を組むことを選び、伸ばされる手を払おうとしている。理想が遠のくばかりで、何も手元に残らない。それが悲しくて堪らなかった。
『なら、私を愛して。スィエル』
そこで、スィエルの意識は現実へと引き戻される。視界にはワインレッドの布が広がり、首の後ろには柔らかな塊が置かれている。ああ、そういえば自分は夢の中にいたのだったと気づくまでには少し時間がかかった。
スィエルの身体に、粘液質の闇がどぷり、どぷりと巻き付く。狂った愛にも、スィエルはもう動揺しなかった。それよりも、いかに苦しみから逃れるかのほうが、今の彼には重要だった。
スィエルは悪魔に心を預ける。愛して。認めて。この飢えを満たして。渇いた喉を潤すように、青年は枯れ果てた心に癒やしを求める。
「ふふっ、目覚ましにこれをどうぞ。随分汗をかいているようですし、水分は大事ですからね」
「……ああ」
真っ白なシーツを薔薇色の雫で染めて。銀髪に仄かな血の香りを残して。悪魔の手から小瓶を受け取り、とろみのある液体を喉に流し込む。
ざらりとした鉄の味。苦く、いつまでも舌に残る。これだけは、何年続けても慣れないものだ。人間の血を、半人間が飲むなど、最大の冒涜だろうとスィエルは思っている。
だが、やめられない。他者の血を一日一瓶。大体十日で一人の血を味わわなければ、悪魔の血は潰えて、眠りにつく。
人間の血だけでは、既に人間の寿命の限界を超えているため生きられない。だから、己の願いが叶うまでは他人の命を喰らってでも生き続けたい。
そうやって、今まで自分のためなら他人を平気で犠牲にする残酷な自分と、他の人と同じように人間らしくありたい自分の間に挟まれながら、スィエルは三百年間を孤城で過ごしたのだった。
指に残ったものも一滴残らず味わいつくし、スィエルは指を組む。何かあったとき――例えば食事後であったり、挨拶の時は指を組むのは、セーツェンの伝統的なしきたりだ。
神など信じていないし(まず悪魔と契約している時点で敵を信仰するわけにはいかない)不服ではあるが、一応共和国の国民ではあるため、礼儀はわきまえている。
「ふふっ……疲れましたね、スィエル。また日が落ちるまでは、ゆっくり眠りましょう」
悪魔の愛情が、スィエルのひび割れた心には深く染みこむ。それさえも、悪魔の計画通りではあるのだが、スィエルはそれに気づいていない。長い夜を共に明かし、日が暮れれば惨劇の幕を開く――。
二人の関係は、複雑に絡み合っている。
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