主をあらゆる敵から守り抜く。飢えをなくし、欲されたものは全て与え、その代わりに収穫できるだけの命と魂を悪魔に捧げる――。
それが、悪魔とスィエルの間に三百年前に交わされた契約だった。この契約は、スィエルが持つ「人々に認められ、愛される」という願いが達成されるまでは永続する。
つまり、その願いそのものを悪魔自身が叶えてしまえば。スィエルの飢えを満たし、スィエルがその代償として贄を悪魔に捧げれば。
スィエルは人々に愛を求めることはなくなり、悪魔もスィエルを守り抜くだけでいい。互いが互いを認めあい、この孤城の中で仲睦まじく暮らすこともできたはずだった。
しかし、時は流れ。スィエルは外への憧れを日に日に募らせていた。一刻も早く悪魔の手から離れ、人間と同じような生活がしたいと願うようになっていた。
そのため、悪魔は孤独になった。今までは、スィエルが愛してくれたのに。スィエルが離れてしまえば、悪魔は次の契約者の候補が見つかるまでずっと人間界を彷徨うという罰を与えられる。
悪魔は人間の悪意を吸収して命に変えている。そのため、契約者がいないというのは恥であるだけではなく、死活問題だったのだ。
悪魔はもう何百年も魔族が住まう元の世界に帰っていない。元々魔族は長命だが、今故郷がどうなっているのか悪魔には分からない。そもそも仲間が生き延びていたところで、悪魔自身の命が潰えてしまえば意味がない。
三百年も一緒に暮らした人間と離れるのは、感情を持たないはずの悪魔も思うことがあった。もっと、一緒にいたい。愛され、必要とされ、また求められたい。
契約者であるスィエルの心が乗り移ってしまったのか、はたまた悪魔自身に自我や心が芽生えたのか。悪魔は、スィエルを縛り付けた。記憶を奪い、殺意を与え、好意を持つように洗脳した。
それは、孤独になるという恐怖からの愛情。愛して、認めて、そしてどこにもいけないようにたっぷりと蜜を与える。
夢を見せ、現実の醜さを教え込み、剣を握らせた。復讐を嫌がれば、契約を思い出させた。その結果、スィエルは酔ったように悪魔の愛を欲しがるようになり、今に至る。
悪魔は、スィエル・キースという男に狂わされていた。
孤城に戻った悪魔は、スィエルをベッドの上に寝かせる。真紅の布で作られた天蓋付きの豪勢な寝台は、主のために作ったものだ。
それだけではない。食事もスィエルがいつも着用している軍服も、果てにはこの城の存続さえ悪魔が管理している。
悪魔は、スィエルのためなら何も惜しまない。それがたとえ、自分の命が潰えるときでも同じだろう、と考えている。
主のために尽くし、主を愛することが最優先。他の人間は全て殺し、彼を生かすことが悪魔の生きがいのようになっていた。
スィエルは、外の世界を知らない。だから、悪魔がいつも彼の面倒を見ている。この生活がずっと続けばいいのに――。悪魔はそう願う。
「ふふっ……スィエル……疲れましたね、今日は。あの少女は貴方を認めるなんて、できやしない。狂った貴方を見れば、きっと彼女は後悔する」
頭を撫でながら、悪魔は今日の戦いを振り返る。あの少女は、本当に殺さなくて良かったのだろうか。邪魔をされる前に、息の根を止めておく必要があったのではないか。
そんなことを考えてから、首を振る。赤目の人間にあそこまで好意を持てる人間というのはそういない。彼女一人で、いったい何が出来るというのか。何もできやしない。そう思い込もうとするが、心の中の不安は膨らむ一方だ。
「一応、見ておきましょうか。彼の心に揺らぎがあれば、面倒なことになる」
スィエルの心臓の部分に己の手を当て、目を閉じる。悪魔は、人間の感情を読み取ることが出来る。感情のない化け物が、感情というものがなんなのかを理解するときに身に付けたものだ。
悪魔の手の上に、逆五芒星が中心に描かれたプリズムが浮き出す。この輝きの中に、どれだけ黒く闇に染まった部分があるのか。それで、スィエルが人間に対して抱いている好意というものを常に判断している。
「これは……」
そこには、悪魔にとって信じたくない光景が広がっていた。プリズムの半分以上が黒く浸食され、あの少女がスィエルに与えた何かは、スィエルの心の多くを支配してしまっている。
信じられない。一度会っただけの人間に狂わされるぐらい、彼の決意は弱いものだったというのか。これは何かの間違いだ。そう思わなければ、おかしくなりそうだった。
「ああ、スィエル……貴方は本当に罪深い。私の愛がなければ、この城に閉じ込められたまま……いえ、あの監獄の中で飢えて死んでしまっていたでしょうに」
恩知らずな人、と悪魔は呟き、スィエルの額に手を這わせる。そして、手をゆっくりと首の方へと移し、右の鎖骨の少し上に刻まれた噛み傷をそっとなぞる。
この噛み傷は、悪魔がスィエルと契約する時につけたものだ。悪魔と契約した人間は、必ずこの傷を身につける。
「愚かな貴方に罰をさしあげます」
噛み傷はただの傷ではない。悪魔が軽く押し込むと、複雑な紋様が宙に描かれ、回転を始める。
「幸せな夢はもう終わり……さあ、微睡みの中で狂いなさい」
悪魔はスィエルの記憶に干渉し、夢を悪夢に切り替える。両親に愛され、普通通りの幼少時代を送っていた――という設定から、過去の記憶に夢を移したのだ。
スィエルはうめき、何度も寝返りをうつが、悪魔はそれをただ眺めるだけだ。手は加えない。助けもしない。彼に悪夢を見せて、それから救い出すことで、この歪な関係は完成するのだから。
「ああ……あああああ!!」
冷や汗を額に滲ませ、叫び声を上げながらスィエルが飛び起きる。髪は乱れ、呼吸は浅く、荒い。夢だったと分かっても、顔は険しいままだ。
「悪魔……」
「おはようございます、スィエル……どうされましたか?」
悪魔は微笑み、普通通りにスィエルに接する。下手に慌てた様子を見せても仕方がない。相手に焦りを悟らせてはいけない。
指を鳴らしてカップとソーサー、ティーポットを用意し、紅茶をとぽとぽとカップに注ぎ込む。加えて角砂糖を一つ、ミルクを少量。レモンを添えて主に手渡す。
甘いのと酸っぱいのとで訳がわからない、と悪魔は思う。だが、スィエルはこれがいいのだと言って聞かないため、悪魔は毎日謎のブレンドティーを出している。
スィエルは震える手で悪魔から紅茶を受け取り、勢いよく飲み始める。行儀が悪いと思っていると、案の定、スィエルは咳き込んだ。
「悪夢を見た……過去の、あの孤児院の……怖かった。怖かった……」
「そうですか。では、その記憶を消してあげましょう……さぁ、私の元に来て」
スィエルは頷き、頭を悪魔の肩に預ける。まだ寝ぼけなまこの青年を、そっと悪魔は抱き寄せた。ふわりと香る日なたの匂いが鼻孔をくすぐり、心がすっと和らぐ。
ああ、やっぱり一緒にいたい。一緒に同じものを食べて、同じ景色を眺めて、同じ幸せを噛み締めたい。
望むのは、それだけなのに。どうして、こんなにも幸せがこぼれ落ちてしまうのだろうか。
「スィエル……私を一人にしないで」
再び微睡みに落ちていく主に向かって、悪魔はそう、嘆いた。
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