穏やかに眠る主の姿を眺めながら、エルシャはため息をつく。城に戻ってからは、いつもの仕事をただ淡々と行った。
主に果物をたっぷりと使ったケーキを焼き、その後に二人で剣術の稽古。夕食前には城の清掃を行い、主の就寝前には血酒を飲ませ――。
そして、今に至る。
悪魔は休息を必要としないため、この後にも雑務はするつもりだ。だが、今はとにかく休みたい気分だった。
「……貴方が愛してくれたとき、私は嬉しかったんです。ああ、やっと自分の居場所が見つかったんだなって」
でも、今まさにその居場所は消えようとしている。スィエルは、復讐をやめたいと言った。いつか、そんなことを言われるだろうということは分かってはいた。だが、いざ言われてしまうとそれを許すことはできなかった。
人間は、嫌いだ。だから殺したくなる。奪いたくなる。あの日の記憶が――泡のように浮き上がってくる。
*
「この穀潰しが……お前なんてもう、使い物にならないんだよ」
そんな言葉が投げかけられたのは、自分が戦場で手足を失ってからだった。運悪く、敵が仕掛けた罠に味方がかかり、助けようとしたが間に合わなかった。
諸共吹き飛ばされ、意識が戻ったときには大量の血がだくだくと流れ出していたのだ。相手の情報を調べきれていなかったことを、エルシャは悔やんだ。だが、それよりも辛かったのは、味方からの容赦のない暴言だった。
「……確かに、私はもう使いものにならないでしょう。こんな醜い容姿で、戦う事もできない。指揮をするにも、後方でただ見る事しか役目はない。そんな事は監視役にやらせればいい。私を、外しなさい」
「かかっ、面白いことを言うぜ。怪我をしたら戦線から外せと。そんな生易しいところじゃないことぐらい知ってんだろ……!」
「があっ!!」
動けないエルシャは床に転がされ、散々に痛めつけられた。
「お前は死ぬまでこき使うさ。何度も何度も味方を死地送りにしたくせに」
「……それは」
「否定できないだろ、指揮官様よぉ。何人も何人も殺したよなぁ? 正直、お前が怪我したって聞いて嬉しかったんだ。ようやく復讐できるって」
「私の指揮が、間違っていたとでもいいたいのですか。あのまま、爆風に晒されるよりも、せめて敵軍に一矢報いる判断をした――それが間違いだったと」
「敵が用意した人間達は、全員手練れだった。私たちが生きているのが不思議なぐらいに――逃げれば間に合う、と思っているようですが、あの攻撃の中満身創痍の状態で逃げ切れるとも思いません。私は故意に駒を潰すような面倒ごとはしませんよ。余裕がない、と貴方も自分で言っていたでしょう……そう、余裕なんてない」
「だから特攻を命じたと? 国のために死ねと? なぁ……巫山戯んなよ」
「私を戦地に送って殺せばいい。責任は取りましょう」
別に殺されても構わなかった。その方が楽だった。いつも聞こえてくる幻聴に悩まされることもなければ、仲間を失った喪失に苦しむこともなくなるだろう――そう思えた。
しかし、彼らは解放を許さなかった。
「殺しゃしねぇよ。面白くないだろ? お前をいたぶって、いじめるのが楽しいのに」
「ッ……私に構う暇があるなら、戦術の一つや二つ、考えてみればいい。どうせ、何も思いつかないくせに」
生きる意味も分からぬまま、外では爆発音が鳴り響き、続々と運び込まれてくる負傷者の様子を、見守るしかなかった。
どれほどの時間が経っただろうか。いつしか、音は響かなくなった。仲間――いや、憎き敵さえも、エルシャの元に来なくなった。
近くに這い寄ってくるのは汚らしい虫や獣ばかりで、人影さえ見ることは無くなった。
期待はいつしか諦めに変わり、人の死に対しての感情も失った。今思えば、この頃からすでに、歯車は狂っていたのかもしれない。
流れる血を見ても、焦点の定まっていない目を見ても、恐怖はなかった。何も感じなかった。
弱かったからこの人間は犠牲になってしまった。自分は、いつ殺されるのだろうか。そんな事をぼんやりと考えるようになった。
起きている時間よりも眠る時間のほうが長くなったある日、いつものように大量に棄てられた骸を前に黄昏れていたエルシャは、闇の中に蠢く影に眉を寄せた。
ああ、とうとう迎えが来たのか、と最初はそう思った。おぞましい何かに怯えるでもなく、ただその時を待った。空気さえも震わす靴音、肌で感じられるほどの溢れる魔力。そのすべてに圧倒されながら。
「誰だ?」
数日間、飲まず食わずの状態だったため、エルシャの声は枯れていた。逃げようにも、足が動かない。そもそも、半身を失った状態ではまともに動くことすらままならなかった。
「私の名は、シェラー・ヴィージス。君に興味を持った方がいてね。出来れば一緒に来てほしい」
「……興味? どうせ、私の体が不完全だから虐めたいだけでしょう。放っておいてください」
エルシャは、ほんの少しばかり抱いた期待が崩れる音を聞いた。この男もまた、冷やかしに来ただけか、と。諦める事には慣れていたが、何故か期待してしまった己を恨んだ。
憂いに沈むエルシャの元に、手渡されたのは瓶入りの水と、果物。顔は動かさずに視線だけを上に向ける。
「……毒は」
「入っていない、とは思うが。私は人間の味覚がよく分からなくなっているからね、食べたくなければ構わない」
数巡の迷いの後、エルシャはシェラーの手から食べ物を受け取った。一口食べてみると、甘やかな果実の香りが口いっぱいに広がる。水の方はさっぱりとした味わいだ。両者がうまく噛み合うように計算されている。
「よかった、食べてくれて」
「……どうして、私を助けるような真似を? 貴方は見たところ、味方でも敵でもなさそうだ」
「別に、助けたわけではないさ。君には、ある用があってね……君の悪意に興味を持ったと言えば正しいか。君の心から溢れる黒い憎悪に興味を持っているんだ」
「憎悪に? 何にせよ、私を利用したいつもりならその交渉には乗れません。私に何かメリットがあるのなら教えてほしいものです」
助けてもらったのはありがたかったが、やはり何か企みがあったようだ。肩を落とすエルシャに、シャラーは甘い囁きを施す。
「その半身を完全に修復できる――としたら、この交渉に乗ってくれるかい?」
「……完全に修復……? はっ、そんなのできるわけがないでしょう? 私の手足は千切れ飛んだ。元がないのに、どうやって」
目を腕にやれば、火傷が酷い肉塊が目に入る。何度も夢見ては諦めたその提案は、鼻で笑うしかなかった。だが、シェラーは動じない。
腰を降ろし、何かを呟いたかと思うと、そのまま自分の手をエルシャの右腕の付け根の部分に当てた。
「無いのならば、作ればいい。そうだろう」
「……!」
驚くエルシャの目の前で、仄かな輝きを放つ粒たちが寄り集まり、金色の光と共に、失われたはずの右腕と右足が再生していく。
「これで、信じてくれたかな。ふふっ、いい顔をしている」
信じろ、と言われても。エルシャは呆然と己の右手を見つめた。一体、何が起こったのか。幻術で惑わせているだけだろう、と思ったのだが、すぐにその疑いは晴らされることになった。
作り物ではない、完璧な再現。しばし惚けるエルシャに、シェラーは苦笑を浮かべる。
「……どうせ、これも何かのまやかしでしょう。私を騙すために、仕掛けたのでしょう? だって……こんな奇跡を起こせる術式は存在しない。存在しないはずだ」
「くくっ……確かに、今はそうだね。私では、少しの間見せる事は可能だが、実用的ではない。これが限界だ。でも、君を呼ぶ方はきっと手も足も直してくれる。来てくれるかい?」
その誘いは夢のようだった。何度も思い描いては叶わないものだと諦めた願いが、叶うと言われた時は、飛び上がるほど嬉しかった。
だから。禁断の契約に乗ってしまった。それが、永遠の渇きを背負うものだとは知らずに。
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