「まただ……また、あの悪魔が……」
恐怖に震える人々を、スィエルは凍えた瞳で見つめる。一歩踏み出すだけで、誰もが背を向けて走り出す。スィエルのことを気にかける人はいない。奴は異端だ。化け物だ。ただ、そう喚き散らすだけで。
人気のない、真夜中の街に死神の足音が響く。
――ああ、私はやはり殺人鬼なのだ。復讐者として汚名を残し、誰にも愛されぬまま孤城に眠った男なのだ。
青年は道化を演じる。感情を心の奥底に押し込め、口元には狂気的な笑みを浮かべ、軍帽で表情を覆い隠す。愛されたい、など思ってはいけない。彼らは敵なのだから。殺すべき贄なのだから。
音もなく、スィエルは闇色の細剣を鞘から引き抜く。戦う気のない者たちは揃って逃げ出すが、全員射程圏内だ。
「フルール・イーサシブル」
冷酷な氷の蔓が、猛烈な速さで逃走者を追う。遙か遠方まで走り、速度を緩めつつあった敵までもを全員捕らえ、スィエルは冷ややかな笑みを浮かべた。どうやら、捕まえた集団は仲間同士だったらしい。揃った深緑色のスカーフに、同じ柄の紋様らしきものが刻まれている。
仲間が殺されるのを間近に見れば、精神的な痛みも相当なものになる。孤児院の中で、スィエルはそれを何度も経験した。
「残念だ。凍術は一番の得意分野でね……貴様らに逃げ道など残っていない」
「クソッ……フェルム・バーレ!」
「初等炎術に術式がいるのか。それでは話にならないな」
スィエルやアルトといった高度な技術を持つ魔術師であれば、初等術式の発動にはイメージを頭の中で思い浮かべるだけで発動が可能なのだ。
しかし、そんな魔術師はそういない。相手を嘲ったスィエルでも習得に数年は要したため、一般人に難しいものであることは知っていた。リーダー格の男は、そこまで歳も重ねていないように見える。同年代か、年下か。どちらみち、実際の年齢は三百を超えているスィエルにとっては誤差の範囲だ。
「力の差は分かったはずだ。逃げるか、戦うか……好きにするといい」
「おい、しっかりしろ! ザクレ……ザクレ!!」
「アデル、俺は大丈夫だ……それより、皆が……」
ザクレと呼ばれた青年が、血を吐きながらもなんとか立ち上がる。腹に刺さったままの氷のとげを一本ずつ引き抜いているが、その度に血がぽたり、ぽたりと垂れる。
「何なんだ……いきなり襲ってきて、俺達が何をしたっていうんだ」
「何をしたか、か。貴様らが忘れても、私は忘れない。これは、屈辱に満ちた三百年間の復讐だ」
「三百年間だと? まるで、お前がずっと生きていたみたいな……」
「ああ、そうだ。私は今まで人間の生き血を飲んで生き延びていた。そして、待ちに待った瞬間は訪れた」
「あんたのことは伝承で聞いていたが、死んでなかったのか。ずっと生きていたのか……どこから見てやがったんだ。俺たちの涙をどこで嘲笑ってたんだ!!」
長い静寂が、両者を隔てる。息さえ許さぬような重苦しい沈黙に耐えきれずに、アデルがスィエルの喉につかみかかりそうになった、そのときだった。
ピキ、という微かな音と共に、アデルとザクレ以外の全員の体が、氷の塊に転じる。凍術の発動はまだ終わっていなかったのだ。絶望に打ちひしがれる青年達に、スィエルはガラス玉のような瞳を向けた。
「愚かな人間達が街を直し、伝承のことなど忘れたように、幸せな毎日を送っている。それを、私は氷雪の孤城で見ていた」
「三百年前の事なんて、誰も知らねぇよ!! なんで俺たちが……俺たちは関係ない」
「誰も知らない? 俺たちは関係ない? 面白くもない冗談だ。赤目を虐げる文化は、今も残っている。違うか」
「お前のような殺人鬼がいれば、当然のことだ……アデル、こいつは生かしてはいけない。すぐに応援を呼んで……」
「甘い」
ザクレの体から、鮮血がこぼれ落ちる。スィエルが、目にも留まらぬ早さで鞘から剣を引き抜き、持ち替え、左手で連続突きを繰り出したのだ。
「ザクレ――!!」
親友に駆け寄ろうとするアデルの腕を、スィエルは右手で掴む。
「貴様の魔力量で処置を施しても、間に合わない」
「離せ……離せよ!!」
暴れるアデルを、スィエルは無造作に放る。鼻先に剣先を突きつけ、ゆっくりと目の先に移動させる。
「何をする気だ、スィエル……やめろ、ザクレは俺の大事な親友なんだ……やめてくれ」
「親友……か」
ずきり、と心の奥が痛む。そんなものがいたような気もするが、曖昧でよく覚えていない。それよりも、負った傷の記憶のほうが、スィエルの脳には深く刻まれていた。
「なぁ、スィエル。あんたも、何か大事なものを壊されたんだろ。それで怒って、街を襲ってるんだろ?」
「……それを聞いて何になる? 貴様らが私の喪失を、どう補ってくれる?」
「補うことは出来ないかもしれない……でも、俺たちも今のあんたと同じ気分だ。壊されて、奪われて、悲しんでる。だから、痛みも分かってやれる」
ああ、また憐れみだ。貴方と同じだと。分かってやれると。そう、淡い期待だけさせて真実の奥底には届かない。それは分かったつもりになっているだけだ。傷口を抉るだけで、何の慰めにもならない。
虚しさと、惨めさが一気に押し寄せてくる。この苦しさを、誰が代わりに受けてくれるというのだ。やりきれない思いを、歯を食いしばることで静める。
「悲しめばいい。恨み、憎めばいい。その悔しさ、歯がゆさ、怒りや恐れ、嘆きが私の求めるものなのだから」
足を掴む邪魔な敵を振り払い、スィエルは一歩一歩と前へ進む。呻き声と呼び止める声が聞こえるが、関係ない。
「私の前に、棺は眠る。生者は息絶え、渇きは潤され、血の雫はやがて糧となる。宵闇の中に、紅き道を――フィヴェーツ・チス・アデッツ」
細剣を高く天に掲げ、詠唱を行うと、紅いスパークが刀身に奔り、片手剣ほどの大きさに姿が変わる。最上位幻術の一つで扱いも難しく、中途半端な魔力量の術士がやれば、命を落としかねない。
莫大なエネルギーを行使者に注ぎ込み、一定時間強化を行う、というシンプルなもので術式自体も短めではあるのだが、対象範囲が広く、魔力の転送という高度な技術もいるため、最上位とされている。
アデルの前に転がる仲間の亡骸から魔力が流れ、スィエルの体に吸い込まれていく。人間への冒涜と言っても過言ではないだろう。
「あははははっ……ははっ……親友が私の力になった気分はどうだ?」
「ふざけんな……あんたをぶちのめしたいぐらいムカついてるよ」
力を全て吸収したため、スィエルの体に刻まれた傷は綺麗にふさがった。地を蹴り、数歩で距離を詰めたあと、隙だらけの胴体に連続して突きを叩き込む。血を浴びれば浴びるほど、体内の魔力が高まっていく。
――もっと、欲しい。
剥き出しの欲望が、スィエルの脳内で暴れ回る。純白の手袋を真っ赤に染め、頬には返り血がこびりつき、雪のような輝きを持つ銀髪を汚しながら、戦い続ける。
「ああ……もっとだ。もっと犠牲が必要だ。私の復讐は終わらない……貴様らの命を全て奪い尽くすまでは終われない」
「あんたは、狂気そのものだ……奪っても、奪っても、満たされない。渇いたままで、いつも喘いでいる」
「そんなことは誰よりも私が分かっている。素人が口を挟むな」
強く薙ぎ払い、体勢を崩したところに、鋭い一撃をねじ込む。この青年を殺せばいい。殺すだけでいいと知っているのに、威力のある剣技や魔術を使う気にはならなかった。
「はぁ……はぁ……スィエル……まだ、俺は戦えるぜ……」
上半身に刻まれた傷からは血の玉が幾つも染み出し、金の髪は乱れている。何とか踏みとどまっているが、剣を持つので精一杯のようだ。次で決めるかと大きく後ろに飛び、剣を地面と平行に構えた、そのときだった。
ゴーン、ゴーンと重い鐘の音。徐々に近づいてくるにつれて、足音も聞こえてくるようになった。ザッ、ザッ、という軍隊のような行進は、軍の施設で暮らしていたスィエルにとっては苦い記憶だ。
「スィエル・キース……情報は掴んでいる、ここにいるんだろう!?」
「探せ! 何としてでも探せ!! 奴は武器も持っている……決して警戒を緩めるな。逃したら給料は半額で済むと思うなよ」
「了解!! 徹底的に調べ上げろ!!」
「セーツェン・セルト・フォーリス……警察か。あんた、指名手配犯にまでなってるぞ」
「ほう……今は、そんな組織が動いているのか。覚えておこう」
「逃げないのか。捕まったら、即死刑だ。絶対そうなる」
死ぬことが出来るなら、それで終わりが来るのなら、何もかも忘れて、罪を思い出すこともなく、眠るだけならばどんなに楽なことだろうか。スィエルの口端には、自嘲の笑みが浮かぶ。
「死は、私には訪れない」
「どういう意味だ。あんたは不死身なのか」
「死にたくても、死ぬことは許されていない……『大災禍に魅入られた七人は、今も罰の終わりを待ち望んでいる』」
訳が分からずに呆けるアデルの肩に、スィエルは手を置く。
「ここからは、逃げた方がいい」
「何でだ。あんたの方こそ逃げなきゃいけないだろ」
「究極炎術を行使する準備が整っている、と言えば分かるか。死にたいなら好きにすればいいさ。この石の光が消えたら、第一区は火の海になる……伝承の通りになるんだ。私は君に逃げ惑ってほしい。そして、味わってほしい。赤目の人々が味わった絶望を。与えられた恐怖を。殺人鬼と成り果てた、赤目の悪魔が起こした過ちを」
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