次の日
「………」
「お前、目のクマやばくね?」
春海は、寝不足に陥っていた。
「さすがにあれだけ読むのは骨が折れたわ…」
「おう…すげえ頑張ってくれて本当に感謝してるが…そこまでしなくてもとは思ってるぜ…」
「そうね…言い出しっぺのあんたがもっと読むべきものを読んでりゃここまでしなくてもよかったんだけどね!」
「ぐげげげげ! 悪かった! 俺が悪かったから首を絞めないでくれ!」
翔也がカエルのような悲鳴をあげ、春海はようやく手を離した。
本を読むのが苦手な翔也が音を上げたことで、春海はあの後翔也が集めた本の大半を読破する羽目になった。その結果が目にできた大きなクマと、思わず翔也の首を絞めてしまうほどのイライラであった。
殺人未遂のような光景だが、この放課後においては教室に誰も残っていなかったのが救いであった。
「まあ…その分、成果は得られたわ」
「ほ、ほんとか?」
「ええ。…とりあえずコレ」
「ん?」
春海が、ピラリと翔也の前に提示したのは、手書きのメモ。
箇条書きで、いくつかの名前…おそらく何かの商品名らしきものが書かれていた。
「それ、とりあえず買ってちょうだい」
「何だこりゃ…ラベンダー云々って……花か?」
「間違っちゃないけど、それはアロマオイルのことよ。それさえあれば、素人のあたしたちでも多少はやりやすくなるはずよ。後は私の方でちょっと練習すれば…瑞樹にも、いけると思う。メモに店名も書いてあるでしょ? 確かあんたの家の近くに、その店があったはずだけど」
「お、本当か? よし、そうと決まりゃ今からでも買ってくるぜ!」
気の早い翔也は、早速鞄を抱えて教室を飛び出していった。
…が、数秒経ったところで、すぐさま引き返してきた翔也が、春海に問いかける。
「なあ、これって全部でいくらくらいするんだ?」
「そうね、よく効くようにちょっと奮発したアロマポッドだから、アロマと合わせて2000ちょっとかしらね」
「………これ、俺の、自費で?」
「そうねー。このプロジェクトを提起しといていざ調べる段になったら音を上げて他人にほとんど放り投げるような誰かさんが、ちゃんと責任を感じてくれるってんならねー…そうするのが当然だと思うんだけど…」
「だー! わかったわかった! 俺が買えばいいんだろ買えば!」
「冗談よ。レシート持ってきたら半分出してあげるから、忘れないでね」
「お、マジか!ありがとう! 恩にきるぜ!」
両手を合わせて感謝の意を示した翔也は、今度こそ店に向かって駆け出していった。
その後ろ姿を見送った春海も、机の上に開かれている分厚い催眠心理学の本を鞄にしまい、同じく教室を出ようとする。
「………」
だが、たった数歩歩いた時点で、その足は止まった。
不自然な沈黙の後、春海はくるりと振り向いた。
その視線の先にあるのは、春海の隣の席。今日、そこは美月の席である。
これまでの学校生活において、春海にとっての美月はクラスメイトであった。ただし、「ほとんど交流がない」という言葉つきであるが。
どうして話すらもまともにしたことないかと言えば、美月がいつも休み時間などでほぼ100%の確率で春海が苦手とする女子グループの輪の中にいるからだ。翔也みたいに騒がしいのが一人ならともかく、三人も四人も甲高い声で騒ぐあの連中はどうにも苦手だった。
あの日。翔也が催眠術の本を見つけたあの日に、図書室に現れた美月。
図書室に似つかわしくない人物の登場に、あの時は心底疑問に思ったものだが、所詮は疑問に思うだけであった。人間の行動に絶対はない。何かあったかもしれないけど、その「何か」までは自分たちには関係ない。その時は、そう思っていた。
だが…その次の日に、図書室に瑞樹が現れたこと。それが、春海の心の中に仕舞われていたあの日の疑問を再び呼び起こした。
瑞樹と美月が、放課後のほぼ同じ時間に、図書室に現れた。
違う点は、美月が黒い背表紙の大きな本を抱えていたこと。
同じ点は、二人ともどこか、挙動不審であったこと。
美月一人の疑問なら、放っておけばよかっただろう。
ただ、それに瑞樹の疑問が加わるとなれば話は別だ。
二人が、それまでほとんど来たことがないであろう図書室へ、ほぼ同じ日に、挙動不審になって現れた。単なる偶然で片付けられる疑問なら、それでいいのだが。もし偶然でないとしたら…?
春海は、無言で美月の机に近づいた。
手に持った鞄は地に置いて、体を曲げて美月の机の中を漁った。
普段の春海なら絶対にしないような行動ではあるが、瑞樹のことに関わるとあれば、一段階行動難易度のハードルが下がるのだ。中から現れたのは教科書やノートの類。念のため名前欄を確認するが、全て白崎 美月の名前が書かれているだけだった。
パラパラと軽くノートや教科書の中身をチェックする春海の目が、少し見開かれた。
「…案外、真面目にやってるのね」
ノートの字は女子特有の清廉さのみならず、落書きとかも一切ない上、むしろ教科書の重要ポイントは積極的にマーカーを引いていたりと、まるで熱心な受験生である。授業中はあの女子グループみたいに寝ていたり、当てられるとトンチンカンな答えを言ったりしていたイメージがあったのだが。
(…まあ、瑞樹と同じって考えれば、ここまでしっかり勉強してるのも分かるけど…)
そんな感想を漏らしつつ、春海は教科書とノートを机の中に戻す。
お目当てであったもの—つまり、美月が図書室に来た理由—が見当たらなかった。
一応美月の個人用ロッカーも手にかけてはみたが、しっかり鍵はかかっていた。
男子連中なんかは面倒だからという理由で鍵をかけない人も多いのだが、美月もここら辺抜かりはないようだ。
(根は真面目、なのかしら…? よくあのグループでワイワイできるわね…)
内心首を傾げた春海だったが、結局疑問が解けずじまいだったことにはため息をつくしかなかった。
分からないならしょうがない。あれはただの偶然、そう願うしかない。
そうひとりごちた春海は、今度こそ鞄を片手に教室を出ていった。
春海は気づかなかった。誰も見ていないと思った春海の行動。
それを廊下に座り込んで、眠そうな目で見つめていた…『死神』に。
彼女が死神に気づかなかったのは当然である。
なぜなら、彼女は死神を見ることはできないのだから。
この学校において、死神を見ることができる存在は、現時点でただ一人。
白崎 美月だけなのだから。
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