蛭野にばれないよう、ちらりと運転席の時計を盗み見る。走り続けて一時間は経ったようだ。
左右の窓は遮光シートが張られていて外が見えない。辛うじて前の風景はこっきり見えるけど、時折看板が目に入るだけ。土地勘もないので、どこへ向かっているかさっぱり見当がつかない。
殴られたお腹がキリキリと痛む。吐きそうになるけどなんとか押さえ込む。
「大丈夫、賢治?」
「はい……」
「うるせぇ! 喋るんじゃねぇ!」
後頭部に銃口を押しつけられる。恐怖からか痛みからか、冷や汗が滝のように流れてきた。
すると、助手席の男が耳からスマホを離し、「蛭野、ダメだ帰れねぇ」と悲壮に満ちた顔つきで後ろを向いてきた。
「どういうことだ?」
「山桐組の中で飼ってる奴が、親父さんがもう、おれらのアパートの近くまでに来てるって言ってる」
「いくらなんでも早すぎるだろ!」
「飛行機でも乗ったのかもしれない。それにしてもマズいぜ……。どうする?」
蛭野が、クソッ! と悪態をつきながら前の座席を蹴った。
「車戻せ」
「なんでだよ?」
「どっちにしろ、市内に行っちまったら鉢合わせになる可能性が高い。別の場所でこいつら捕まえてて、それで遅れたことにすれば辻褄が合うだろ」
「でも、そいつらが正直に言ったら、おじゃんだぜ」
「絶対に言わせねぇ。なあ、お前も新しい彼氏の命が大事だよな? それとも、また体だけの関係か?」
蛭野がポケットから拳銃を取り出した。光沢と重量感から本能的にほ本物だとわかった。
どっと冷や汗が出てきた。人を殺すための道具が、人を殺せてしまう人間の手にあることが、とてつもなく恐ろしい。
蛭野は一葉さんのこめかみに銃口を突き付けた。一葉さんは、「やめて、撃たないで……」と今にも泣きだしそうな顔で懇願し始めた。
「よし、いい子だ。おれと付き合ってた頃みたいに大人しくしてろ。なあ?」
一葉さんがコクコクと頷く。
「でもよ、贖罪ってのが済んでないだろ? 昨日、お前がおれのことを裏切ったことについては、まだ許しちゃいね
ぇ」
蛭野は一葉さんの顎を掴むと、舌で頬を舐めあげた。
「お前が心の底まで反省するまでいたぶる。わかってるよな? お前はそれぐらいおれを傷つけた」
一葉さんのこめかみに更に強く銃口が押し当てられる。一葉さんは小刻みに震え出した。
バンが減速した。車線変更をしているのだろう。逃げられるチャンス――だけど、ここで抵抗したら間違いなく撃
たれる。ぼくは武術の達人でも、特殊部隊の軍人でもない、小柄な少年だ。返り討ちにされるリスクを天秤に賭けたら、あまりに危険すぎる。
バンはまた一時間ほど走り続けた。その間、脱出の機会は全くなかった。お腹の痛みはほとんど引いたけど、状況は相変わらず最悪だ。
やがて、バンが止まった。
「降りろ」
蛭野がぼくに促してくる。外は人気のない山だった。木々の間に古びた小屋がぽつんと立っている。
「先に入れ」
鍵がついていたけど、錆びついていて石を叩きつけると簡単に壊れた。中には鍬や鎌などの農具や、数人分の椅子が置かれていた。
「お前はそこに座れ。一葉はこっちだ」
蛭野が一葉さんの腰に手を回して抱き寄せる。あっちに拳銃がある以上なにもできない。ぼくは仕方なく埃が積もった椅子に腰かけた。
「さあ、一葉。脱げ」
「こ、ここで?」
「当たり前だろ。ホテルに行くのもめんどくせぇ。それに、もうすぐお前の親父に引き渡さなくちゃいけないから、急いでるんだよ。ほら、自分で脱げ」
一葉さんは震える手で一つ一つゆっくりとボタンを外していった。蛭野は我慢できなくなったのか、舌打ちをすると、自分で乱暴に開けていった。
「お願い、やめて……」
「今更なんだよ? おれら何回もやったことあるだろうが? あの日の夜は覚えてるか、お前から誘ってきたんだぜ?」
「でも、あんたが好きだって……!」
蛭野は笑い声をあげ、乱暴に一葉さんの髪を掴み上げた。
「おいおい本気にすんなよ! わかった、新しい彼氏にも教えてやる。こいつと付き合ったのは、山桐組に入るための足掛かりだよ! てめぇはただの駒だ! クソカマ野郎!」
「わたしを利用したってわけ……?」
「そうだ! お前なんてしょせん、ただの道具だ! それ以外になんの価値がある? 馬鹿でボンボンで、顔だけいい薄っぺらい野郎に!」
一葉さんの瞳からぽろぽろと涙がこぼれた。
その瞬間、腹の底から激しい怒りが湧いてきた。気付けば、蛭野がけ拳銃を持ってるのも忘れて、「やめろ!」と叫んでいた。
「黙れ!」
蛭野が拳銃をぼくの方に向ける。
火薬音が鳴った。時が止まったかのように静かになり、蛭野以外の全員の顔が固まった。
弾は当たっていなかった。耳のすぐ横を通り過ぎ、壁に穴をあけて外に出ていったのだ。
「調子に乗るなよ、クソガキが。もう一回口答えしてみろ。マジで顔面に穴が開くからな」
死ぬ寸前だった。緊張感の糸がぎちぎちまで張り詰め、冷や汗がとめどなく溢れてくる。
でも、
「一葉さんを馬鹿にするな……!」
「はあ?」
「一葉さんは凄いんだぞ! 誰よりも優しくて! 誰よりも素直で! 誰よりも強くて! こんなぼくの話だって本気で聞いてくれて! お前はそんな一葉さんの気持ちを踏みにじったんだ!」
支離滅裂なのは自分でもわかっている。しかし、一葉さんが否定されるのが苦しくて、悔しくて、こらえきれなかった。
「まだ口答えするのか? てめぇ、目の前のもんわからねぇのかよ⁉」
蛭野が再度ぼくに銃口を向けてきた。今度はきっちりと額に向けらえている。
男の一人が慌てた顔で、「おい、やめろ蛭野!」と止める。しかし、「山か海に捨てればバレねぇよ!」と聞こうともしない。
景色がゆっくりになった。
引き金にかける指に力を込められていくのがはっきり見える。
殺される。
その瞬間、一葉さんが蛭野に体当たりした。予想外の攻撃をくらった蛭野は、拳銃を落とした。
「賢治!」
ぼくは無意識に立ち上がって地面を蹴っていた。視界はまだスローモーションのようにゆっくりと動いている。
男二人もぼくの意図に気づいたのか、拳銃に向かう。
ぼくの手が一瞬早く拳銃に届く。全身で覆い被さるように拳銃を拾うと、小屋の角まで転がった。
拳銃は重かった。手にかかる、しっかりとした重量。すぐさま見よう見真似で構える。
「動くなぁ!」
男たちが固まった。
蛭野が、「おい、まさか本当に撃つわけねぇよな?」と顔を引きつらせる。
「撃つぞ! 近寄るな!」
「――いいや、お前には撃てねぇ」
蛭野は唇を舐めながら、ゆっくりと近づいてきた。
「来るな! 本当に撃つぞ!」
「だったら早く撃てよ。ほら、早く」
一歩一歩確かめるように近づいてくる。ぼくは指が震えて引き金に指がかけられなかった。
ぼくが人を殺す? 映画を見ているかのように現実感が湧かない。ほんの少し指を引くだけのことが、とてつもな
い重圧となってぼくを止める。
「ほらな。撃てねぇだろ。撃てるはずがねぇんだ、クソガキ程度が」
更に一歩近づいてくる。
そうだ、ぼくは撃てない。たとえクズであっても、撃てないだろう。殺人はいけない。今まで培ってきた道徳心が、全力で人差し指を抑え付けてくる。
どうする? どうすれば蛭野を止められる?
「こっちに渡せ。早くしろ!」
蛭野が吼える。その時、電撃のようにある考えが浮かんだ。
ぼくは自分のこめかみに銃口を当てた。
「う、撃つぞ!」
蛭野がきょとんと小首を傾げる。
「……お前イカレちまったのか? 自殺してどうなるんだよ?」
「もし死体に弾の跡があったら、警察は絶対に真剣に捜査する! 絶対に!」
銃が禁止されている日本で、拳銃の事件は特別な事例だ。しかも、暴力団でもないただの中学生であるぼくの死体
に銃痕が残っていたとなったら? 警察も犯人捜しに全力を注ぐだろう。
蛭野もその考えに行き着いたのか、一瞬困惑の表情を浮かべた。
「それなら、さっき言った通り山か海にでも捨てればいいだろ」
「絶対に見つからないって保証できるか?」
蛭野が言葉に詰まった。しかし、すぐに笑みを浮かべて、「細切れにすればバレねぇ」と近づいてきた。
確かにそうだ。しかも、この賭けにはぼくに全く分がない。ポーカーでいい役を作って、後ろの人に渡すようなものだ。自分は賭けたもの全てを失うことが確定している。失う物とは、命だ。
でも、一葉さんは助かる可能性がある。このまま自分を撃てば、蛭野達もうろたえるはずだ。一葉さんを乱暴する時間もなく、ぼくの死体処理を済ませて、山桐組に預けなくてはいけない。
ぼくにそんなことができるのか? 死んで成功という作戦を受け入れられるのか?
指は言うことを聞いてくれるのだろうか?
「撃てねぇ! お前は撃てねぇ!」
蛭野が目の前に迫る。
時間はない。
「うああああっ!」
吼える。
指に力を込めた。
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