車に揺られ続け、夜を越して朝になった。ぼくは緊張で一睡もできなかった。
「さっきサービスエリアで母さんに電話した。アパートの外で待ってるそうだ」
「わかった」
「覚悟はできてるのか?」
兄さんが運転席から聞いてくる。
「うん」
「無理しなくていいんだぞ。おれみたいに、黙って逃げるのも一つの手だ」
「わかってる。でも、そうしたら母さんはものすごく悲しむと思うから」
そう言ってから、しまった、と思った。遠回しに兄さんを責めているようなものだ。しかし、ぼくの思いとは裏腹に、「そうか」と言っただけだった。
風景が徐々に見慣れたものへと変わっていく。
一葉さんが手を重ねてきた。視線を感じたけど、それに目を合わせてしまうと勇気が消えてしまいそうで、そのまま景色を見続けた。
大丈夫だ。ぼくなら大丈夫。
やがて、通っている塾が見えてきた。何百回と歩いた見慣れた家路が、やけに新鮮に感じる。
心臓が少しずつ高鳴り始める。あとほんの少しで家に着くのだ。ああ、このままずっと家に着かなければ、どれほど楽なのだろう。
当然ぼくの期待通りにはいかず、住んでいる古いアパートの駐車場が近づいてきた。
女の人が立っている。間違いなく母さんだ。
車はゆっくりと減速し、アパートの前に止まった。
母さんがドアの前まで駆けてくる。
ドアノブに手を伸ばす。自然と手が震えて、上手く開けられない。
「賢治……」
一葉さんが両手で手を包んでくる。ダメだ。ここで一葉さんの顔を見てしまったら、きっと引き返してしまう。
「大丈夫。ぼくは大丈夫」
自分に言い聞かせて、一葉さんの手をゆっくり引きはがす。もう片方の手を添えて、なんとかドアを開ける。する
と、母さんがドアの隙間からぼくの手を掴んで、無理やり立ち上がらせてきた。
「賢治!」
「……ごめん」
「今までどこ行ってたの!?」
「それは……」
母さんはなんて次の言葉を言うだろうか。
きっと――
「あなたこの数日間分の時間を無駄にしたのよ!? また別の子に先を越されてるわ! 今度受からなかった
らどうするのよ!」
ああ、やっぱりそうだ。この人はぼくの心配なんかしてなかった。受験をするぼくのことを心配していたのだ。
「旅行に行ってたのかなんだか知らないけど、こんなに長い時間勉強しなかったら朝陽高校に行けないわよ? どれだけ後れを取ったかわかってるの?」
「母さん」
「その間も復習はしてたわよね? なにも忘れてないわよね? 怠けてないわよね?」
「母さん」
「もういいわ! 部屋に戻って参考書解きなさい! 今は一秒でも惜しいの! だから早く――」
「母さん!」
大声を出すと、母さんは面喰った顔をして口を閉じた。
ぼくは言葉を選び、ゆっくりと紡いだ。
「母さん。ぼくは高校受験なんてしたくないんだ」
「……なにを言ってるの? 冗談よね?」
「ううん。本気だよ」
「それは、朝陽高校じゃなくて別の高校を受けたいってこと? そうよね? それもいいわね。有名な進学校だったら朝陽高校以外にも――」
「違うんだ。高校受験をしたくないんだ」
途端に、母さんの目が色を失った。
「冗談でもそんなこと言うのやめてちょうだい」
「本気だよ」
その瞬間、母さんがビンタしてきた。頬が焼けるように熱くなる。
「高校受験しないでどうやっていい大学に、いい会社に入るのよ! いい? これは全て賢治のことを思って言って
いるのよ?」
「でもぼくの意見を聞いたくれたことはないじゃないか」
「だって正しいことでしょう? わたしの言っていることは間違い? 偉いお医者さまだって、ノーベル賞を取った科学者だって、みんないい大学に行ってるじゃない! そのための高校受験なのよ!」
「そうかもしれない。でも、ぼくはそんなことしたくない」
「幸せになりたくないの?」
「このまま母さんのいう事を聞き続けて、幸せになれる気がしないんだ」
頭の中で次の言葉が浮かぶ、言え。言うんだ。体の芯から震える。今までのぼくと母さんを否定する言葉を口に出すんだ。
「母さんの言うことだけ聞いて、ぼくの考えで決めていないなら、将来、絶対に後悔する。だから、自分で自分の行く道を決めたい」
「違う! 違う違うわ! あなたはまだ幼いの! 考え方も成熟してないのに、自分の未来なんてわかるわけないでしょう!」
「正直、ぼくだってわからない。でも、このまま高校受験をしても、ぼくのなりたいぼくにはなれないってわかるんだ」
母さんがはっきりと絶望の表情を浮かべた。そして一瞬で顔を真っ赤にして、「あのろくでなしが吹き込んだんでしょう?」と運転席の兄さんを指差した。
「絶対にそうよ! そうに決まってる!」
「違うんだ。兄さんは関係ないよ」
「そんなわけないわ! あいつの言うことなんか聞いちゃダメ! 家から逃げ出して、ダラダラした生活を送っているんでしょう!」
「立派に仕事してるよ」
「受験から逃げ出した時点で、立派なわけがないじゃない!」
「受験することだけが立派なことなの?」
母さんが、「うっ」と喉を鳴らして言葉に詰まらせる。そして、今度は目に涙をためてぼくに抱き着いてきた。
「お願い! お母さんの言うことを聞いて!」
初めて見る母さんの弱い姿だった。
「今までずっと二人で頑張ってきたじゃない! あと一年だけなのよ! あと一年努力すれば、その後はずっと楽に進学して就職できるのよ!」
ぼくはためらった。
だけど、
「ごめん」
ぼくはその手を解いた。
呆然と見てくる母さんに背を向けて車に戻る。小さな声で、「賢治」とまた縋ってきたのが聞こえたけど、振り返らず車に乗り込んだ。一葉さんが泣きそうな顔で見てきたけど、黙って手を握るとなにも言ってこなかった。
兄さんは無言で母さんのことを見つめると、運転席から降りて母さんの前に立った。ゆっくりと頭を下げて、「ごめん」と言った。
母さんが目を丸くする。兄さんは踵を返して、また運転席に乗った。
兄さんがアクセルを踏む。母さんが遠ざかっていく。呪縛から解き放たれたのに、開放感なんてこれっぽちもない。ただ、尾を引く悲しみだけがぼくの胸に引っかかっていた。
これが成長の、離別の痛みなのだろう。そう思うしか、この感情を美化できなかった。
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