「帰ったぞ」
兄さんの声が聞こえた。午前中の仕事を終えて帰ってきたから、今は十二時頃だろう。ぼくはノートを閉じ、シャ
ープペンを赤本の上に置いた。
「まだ勉強してたのか」
「まあね。でも、だいぶ暑くなってきたし、そろそろ休もうと思ってたところだよ」
「ウチには扇風機しかないんだから、あんまり無理して熱中症になるなよ」
冷蔵庫から冷えた麦茶を取り出し、コップに注いで渡す。兄さんは一気に飲み干すと深く息を吐いた。
「勉強の調子はどうだ?」
「まあまあかな。それより、ここにも観光客が来るんだね。海水浴の人がちらほら来てるよ」
「もうシーズンだからな。ぼちぼちいてもおかしくないだろう。でも安心しろ。こんな田舎な海、来てもせいぜい十
組程度だ」
「そのうち穴場スポットって、テレビで取り上げられたりね」
「勘弁してくれ。そうなったら、この家は海の家に改装しなくちゃいけない」
「それはぼくも嫌だ」
兄さんがコップを突き出しておかわりを催促してくる。ぼくは黙って麦茶を足した。
「そういえば、高卒認定試験の結果はどうなった?」
「余裕で合格したよ」
「そいつはよかったな。次は大学か」
「うん」
「どこに行くつもりだ?」
「一応東京の国立大学。奨学金もらうつもりだから、心配しなくていいよ」
「馬鹿。おれにだってちょっとくらい蓄えはある」
兄さんが軽く肩をパンチしてくる。ぼくは居間に座り直し、赤本のページをめくった。
ぼくは母さんから離れて今日までの三年間、兄さんと一緒に過ごしていた。今ではたまに兄さんの仕事を手伝った
りして生活している。相変わらず貧乏だけど、愉快な日々だ。
それから、二年前から勉強を再開した。浪人生の為の塾を開こうと思い立って、その為に大学で経営学を学びたいのだ。
生まれた初めて自分の為に勉強を始めた。すると不思議なことに、あれほど苦痛だった勉強が、意外にも楽しく思えてきたのだ。前まではただの難解な数字の羅列が、人類が数千年をかけて発見した英知の結晶だとわかった時には感動すら覚えた。でも、高校に編入する気もなかったので、高卒認定試験だけ受けることにした。
「そういえば手紙着てたよ」
テーブルの上に白い手紙を指差す。
「また母さんからか」
「いいじゃん。でも、最初は連絡なんて全然取れなかったのに、仲良くなってきたよね」
「仲良くなったんじゃない。お前がいなくなって、やっとあっちも妥協を覚えたんだろ。内容もほとんどお前の話題
だよ。ちゃんと良い物食ってるか、だってさ」
兄さんは文句を言いながら、手紙の中を見る。その横顔はなんだか、少し穏やかだ。
「あのさ、一つ確認したいことがあるんだ」
「なんだ?」
「家から出ていった後も毎月家に送金してたでしょ?」
「……ああ。なんでわかった?」
「前に母さんの通帳の中をうっかり見ちゃったことがあってさ。毎月二万円、誰からか振り込まれてたから」
母さんは兄さんが生きていることは知っていたのだ。それでも探そうとしなかったのは、かなり冷たいのだろうけど。
「その、ありがとう」
「気にすんな」
すると、玄関が勢いよく開かれた。現れたのは、片手にレジ袋を提げた、ノースリーブの夏服を着た一葉さんだった。
「あっちー! 相変わらずエアコン一台もないの?」
「いきなり人の家来て文句言うな」
「半分わたしの家みたいなもんじゃん」
そう言って、「あ、これスイカと桃ね」と兄さんにレジ袋を押しつける。兄さんは不満そうな顔で手紙をテーブルに置き、袋の中の物を冷蔵庫に入れた。
「よっ、賢治。頑張ってるね」
「はい。一葉さんはお店終わったんですか?」
「今日は夜の三時くらいまでお客さんと一緒にガンガン飲んでて、今日は休み。まったく、酔っ払いのおっさん相手すんのも楽じゃないね」
「それでこんなに元気なのも、普通じゃないですよ」
一葉さんは近くのスナックで働き始めた。しかも、性別を公言しているらしい。しかし、その底抜けな明るさの性格と女性以上に女性らしい仕草から、瞬く間に人気になったそうだ。
一葉さんも生活は大変そうだけど、笑顔が多くなった。自分の人生を歩んでいるからだろう。柴原さんがたまに来るのが面倒くさい、とよく愚痴を漏らすけど。
一葉さんは薄い座布団を枕にして、ぼくの隣に寝っ転がった。汗が小麦色の肌に薄く浮かんでいて、前髪もおでこにぺったりと張り付いている。
ふと、遠くからピアノの音が聞こえてきた。ぽろんぽろん、とおぼつかない旋律だ。
「もしかしてこれって」
「そう。わたしが近藤おじいちゃんにピアノ買ってあげたの。意外と高くてびっくりしたけど、喜んでくれてたし。まあ、いいかなって」
「お金持ちですね」
「まさか。わたしだってカツカツだよ。でも、誰かの為に使うお金って、あんまり惜しくないから」
近藤さんが喜んでいる様子が目に浮かぶ。きっと、宝物にするんだろうな。
音律がつまづきながらも、段々と整ってくる。次第に、どこかで聞いたことがあるクラシックになっていった。
「なんて言うんだっけ、これ」
「さあ。でも、綺麗ですね」
「うん」
そしてぼくらは無言になった。ぼくはシャープペンを持ち直して、赤本に目を落とした。
ピアノと波の音しか聞こえてこない。
「ねえ」
しばらくしてから、一葉さんが小さな声で言った。
「東京の大学行くんだよね」
「はい」
「わたしもついて行っていい?」
心臓が高鳴る。答えは決まっているのに、声が出てこない。
そんな気持ちを見透かしているのか、一葉さんは笑みを浮かべてぼくの肩をつついてきた。
「賢治はどう思ってるの?」
ぼくは直視できずに目を逸らした。視線の置き場に困って、部屋のあちこちに置いては、終いには赤本に辿り着いた。
その間、一葉さんはなにも言わなかった。ぼくの言葉を待っているのだ。
こんな時に、気の利いた言葉が出てこない。
だから、等身大の自分で。
「ぼくは一葉さんといて凄く楽しいです。ご飯食べるのも、ぼうっとするのも楽しいです。なにするのも楽しいんです。だから、これからも一緒にいたくて、その……」
かっこ悪いな、と自分でも思う。でも、これが精いっぱいだ。
「好きです、一葉さん」
そう言うと、胸の鼓動は逆に穏やかになっていった。言いたいことを、言うべきことをやっと口にできたからか、胸のつかえが降りたかのようだった。
「そっか」
一葉さんは満面の笑みを浮かべて言った。
眩しいくらいに綺麗だった。
了
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