兄さんの家は、縁側から夕日が見えた。沈みゆく太陽をぼんやりと眺めていると、あっという間に夜がやってきた。
潮騒の大きな音がする。時間が経つにつれて、兄さんに対する怒りは波と一緒にどこかへ行ってしまった。
「お兄さんがわたしたちの布団出してくれたよ」
「兄さんはどこで寝るの?」
「納屋で寝るってさ。若い二人は一緒の方がいいって言うから」
「余計な気を利かせて……」
九時くらいだけど、辺りは恐ろしいほど暗かった。でもなにもすることがないので、すぐに二人でカビ臭い布団に寝っ転がった。生憎一つしかないので、ぼくと一葉さんが背中合わせになる形だ。
「ねえ、賢治」
一葉さんが潮風に溶けて消えてしまいそうな声で言ってきた。
「なんですか?」
「昼間のこと、ごめん」
「一葉さんのせいじゃありません」
「幻滅した?」
「しませんよ」
一葉さんの声は、年頃の少女のように頼りなかった。いつもの気丈な声音はどこにもない。触れば崩れてしまいそうな、か弱さをでできていた。
「わたし、親父のこと大嫌いだったんだ」
一葉さんがぽつりと言った。
「家が厳しくて、昔気質のヤクザでさ。男は男らしく、女は女らしくって。でも、わたしって心は女でしょ。だから、よく矯正って言って殴られてた」
一葉さんの手が、ぼくの腰に回される。
「こっち見て」
手のひらの柔らかい感触に、どきりと心拍数が上がる。勇気を出して、手に従って寝返りを打つと、一葉さんの綺麗な顔が目の前にあった。
鼓動が更に高まっていく。心臓が今にも胸を突き破ってしまいそうだ。
「ついこの間まで病院に居たでしょ。本当は、親父に反抗したら、ガラスの灰皿で頭を殴られたから。虐待だよね。
ほんと、バッカみたい」
そう言って笑顔を作る。痛々しくて、見て入れらない。
「でも、元はわたしに責任があるんだ。さっき誘拐しようとしてきた元カレ、蛭野っていうんだけど、前まで関東で半グレやってたあいつと付き合ってたんだ。別に特別好きじゃなかったの。ただ、親父に反抗するために、山桐組が管轄してる半グレと付き合っただけ」
一葉さんの目尻に涙が溜まっていく。瞬きをすると、つらりと一粒涙が流れ落ちた。
「そういえば、わたしが付き合った男たちって皆そう。誰も好きじゃなかった。親父に反抗したくて、自分の生き方をしたくて、言い寄ってくる男に見境なくいい顔してただけ。本当の馬鹿はわたしなの」
一葉さんは深い深い溜息を吐いた。そして決心したかのように、唇を横に結んだ。
「好き、賢治」
その瞬間、心臓がはち切れてしまいそうだった。
聞き違いかと思ったけど、ありえない。間違いなくぼくに向けられた言葉だ。
「命がけでわたしを助けてくれたよね。それから、賢治になんだか変な気持ちが湧いてきちゃって、それですぐに好
きだってわかって、それで……」
「一葉さん……」
「こんな気持ちになったの、生まれて初めてだから……」
一葉さんがぼくの目を真っ直ぐ覗き込んできた。次の言葉を待っているのだ。
答えを言わなくては。
「ぼくは、その、嬉しいです」
頭がこんがらがって考えがついてこない。
「でも、ぼくたち男ですし、少し変かなって思うんですけど……」
違う。こんなことを言いたいんじゃない。違うんだ。
ぼくの気持ちと口が裏腹になって出てくる。一葉さんに対する思いの答えはこれで正しかったか? 自分でも考えが混沌として、理解できない。
ぼくが一人で慌てていると、一葉さんの顔が無表情になって、それから悲しそうに眉をひそめた。
「そうだよね。男どうしが好きとかおかしいか。やっぱり、賢治は普通の人だしね。おかしくないと思う」
「違うんです、一葉さん」
「いいの、忘れて。ごめんね」
一葉さんは寝返りをうって僕に背を向けた。
今すぐぼくの方へ向かして、一葉さんの顔を見たかった。間違いなんだと訂正したかった。誤解なんだともう一度やり直したかった。
でも、ぼくにそんな勇気はなかった。馬鹿だ。間抜けだ。一葉さんをどうしようもなく傷つけた。
すぐ横にいるのに、ものすごく遠い。その距離を縮める方法が、少しも思いつかない。
しばらくすると、一葉さんが寝息を立て始めた。ぼくも後悔しながら、目をつむった。体は疲れて痛いはずなのに、全然眠れなかった。
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